二.始まりは五月(3)
外出していたらしき明智が、空の暗くなりかけた頃に帰宅した。
掃き掃除中のおれに「よっ」とだけ声をかけ、管理人室応接へと入っていった。
二階の廊下を先に済ませて階段を掃きながら降りてきたところで、おれも一息入れようと明智の後を追った。
玲がソファに収まっており、明智は椅子に腰掛けてポットから紅茶を入れていた。
いつの間に入室したのか、白川氏の姿もそこにあった。
「管理人さん、修繕は進んでいますか?」
白川氏が尋ねてきた。
彼は今日も変わらず白いワイシャツに袖を通していた。
「一階の気になっていたところには手をつけました。ちまちま進めていくとしますよ」
「お前、そういう細かっちい作業が好きそうだよな」
明智が横から口を出した。
「なんでそうなる?」
「性格がねちっこいっていうかさ。細かい色むらとか気にして延々作業してそう」
「……失礼なやつだな」
そこは明智の意見に承伏しかねた。
「でも、確かに管理人さんって部屋もわりかし綺麗にしてるし。案外まめなのかも。そういえば、明智さんや白川さんの部屋ってどうなってるの?」
玲がソファで丸くなりながら、二人の顔を見回して言った。
明智の部屋は、おれが言うのもなんだが意外とお洒落にレイアウトされていた。
白と黒を基調にしたシンプルな色使いと、必要最低限の家具だけが持ち込まれた男らしいすっきりした部屋だ。
そう言ってやると、明智は「まあな」と鼻を高くし、玲は「なら、無精髭も剃ったらいいのに」と意見した。
白川氏は「私の部屋に遊びに来たらわかりますよ?」と応じたが、玲も特に興味があったわけではないようで、「今日の夕ご飯どうしよう……」などと呟き始めた。
おれも明智に相伴して、カップいっぱいに紅茶を注いで香りを楽しんだ。
「私の分も残しておいてくださいね」
「ええと、まだあると思います」
おれは白川さんの指摘に対し、ポットを振って希望的観測に基づいて答えた。
「あ、無くなったらまた入れてくるから。言ってください」
「玲ちゃん。この二人のために、そこまでしなくてもいいって。もうすぐ晩飯の時間なんだし、北条も白川さんも適当にやるよ」
晩飯と聞いて、おれは何も準備がないことにはたと気づく。
「そういえば買い物に行ってないな。明智、外に出るか?」
「パス。帰ってきたばかりだし。俺は買い置きのインスタントで済ませる」
「私、出られるけど……」
「玲さん、ならば私がご一緒しましょうか?」
玲の発言にのせて、白川氏が誘いをかけた。
答えに窮する玲を見て、明智が助け舟とばかりに白川氏を茶化して見せた。
「白川さん、玲ちゃんと二人きりになって話題は持つんですか?相手は女子高生ですよ」
「こう見えて、私は若い趣味を持っていたりします」
「え?それって何です?」
おれは横合いから質問を挟んだ。
白川さんの趣味の話など、一度として聞いたことがなかった。
「内緒です」
いつもと同じやり取りに帰結し、おれと明智は揃って溜息をついた。
白川さんの人間性に対する疑問は今までも、そしてこれからも解消されそうになかった。
紅茶を飲み終えた明智は席を立ち、「んじゃ、部屋でたまった録画でも見るとするわ」と退室した。
おれは一緒に出て、残る一階部分の掃き掃除へと戻った。
草葉や砂、新聞の切れ端といったゴミが日中の強風で舞い降りたがために、廊下は酷い有様だった。
「玲ちゃんを晩飯に誘ってやれよ、北条」
廊下で一番奥の、一〇五号室の前で明智が言った。
「いや、おれは距離感をだな……」
「何言ってんだ?柳も誘えばいいじゃんか。いい口実になるだろ。じゃあな」
言い捨てて、明智は自室へと引っ込んだ。
おれはしばらく箒を持つ手を止め、ものは試しと麻里亜にメールを送ってみた。
そして、玲が管理人室から出てきたところを呼び止めて外食に誘うと、嬉しそうに「準備してくる」と言って階段を駆け上がっていった。
おれは手早く掃除を片付けて部屋に戻り、シャツの上に黒いジャケットを引っかけた。
ジャージは比較的綺麗なデニムへと履き替え、玲が出て来るのを待った。
麻里亜からの返信は一向になく、頭を切り替えて玲との夕飯を楽しむことにした。
玲と連れ立って駅前に向かって歩いていると、帰宅途中の律子さんとすれ違った。
律子さんはグレーのパンツスーツを着こなしていて、仕事のできるOLといった風情だ。
一緒にどうかと誘ってみたところ、律子さんは早めの夕飯を外で済ませてきたとのことで「千夜ハイツ」に帰っていった。
土曜日ということもあって駅前は人が多く、目当ての洋食屋は二組が外に並んで待っていた。
丸々一軒家が店となっているその外装は煉瓦造りを模した壁面が洒落ていて、絡まる蔦や古めかしい角型の電灯が懐古主義的な雰囲気を醸し出していた。
店先のイーゼルもまちまちな長さの枝が組み合わされた脚に、手彫りと思しき凝った意匠の木枠がよく似合っていた。
黒板には技ありの白チョークで、「おすすめ、田舎風煮込みハンバーグ」と書かれていた。
二十分ほど雑談をしながら外で待ち、団体客の退出から程なくして、おれたちは窓際のテーブル席へと通された。
メニューリストを熱心に眺めている玲の目はきらきらと輝いていた。
「好きなの頼んでいいよ。今日はご馳走するから」
「本当に?やった」
「あ、お酒と二ポンドステーキは駄目」
「二ポンドって……一キロとか。ないない」
満面の笑みを湛えて玲は言った。
出されたオムライスと煮込みハンバーグのセットを口にし、おれは改めて手作りの妙技に舌鼓を打った。
ここは味もさることながら一品あたりの量も多く、男女を問わず人気の店だ。
給料日の後によく来ているのだが、そこそこの値段をとるにも関わらず夜は満席の状態しか見たことがなかった。
「美味しい!」
「だろう?一押しの店なんだ」
「管理人さんて、お金持ちなの?ここ、安くないよ」
「これでも管理人の仕事以外に、たまに日雇いのバイトも入れてる。学費は奨学金があるし、意外と何とかなるもんだ」
「日雇いって?」
「工事現場の下働きさ。家が土建屋をやってる友人の紹介で、大抵は好きな時に入れる。頼めば日当をその日払いにもしてくれるから、重宝しててね」
「ふうん。働き者だね。でも、私と一緒のときは無理しないでいいからね。麻里亜さんにお金をかけた方が良いよ」
「高校生が余計な心配をしないでよろしい」
「本当だって。あのくらいの歳の女子大生って、物性的な充足に重きを置くんだから。お金をかけて貰ってる自分にはそれだけの価値があるんだって、自己陶酔に浸るの」
「そうかい。いまどきは、女子高生が女子大生の心理を語るのが流行りなわけか」
「……管理人さん、信じてないでしょ?」
「その通り、とは簡単には頷けない」
「女はね、経験でものを言うの。こう見えて私、色々と知ってるんだから」
「それは頼もしいな」
「だから管理人さんも、私の言うことを聞いた方が幸せへの近道よ。何といっても、私と麻里亜さんは同じ女なんだし。女心のことは任せて」
「幸せねえ」
「私はさ、誰かと一緒にご飯を食べられるのが何より幸せなの。施設を出てからずっと一人だったし。たまに一宮がご馳走してくれたけどね。それこそ今日の管理人さんみたいに」
商社マンだった一宮氏に玲を養う財力があったことは疑いないが、聞くだに面倒見の良さには驚かされる。
彼は三十三、四のはずで、玲を匿った時点では三十歳にもなっていなかっただろう。
それが女の子一人の人生を背負い込んで、あまつさえ周りの誰にも頼らず平然と生活していたのだから、正直恐れ入る。
思うことがあるとすれば、そこに恋愛感情の介在する余地があったのかどうかという点だ。
「十六で結婚するっていうのは、どんな気分なんだ?」
「ああ、あれは書面だけだし。ウェディングドレスを着たわけでも式を挙げたわけでもないから。実感は何もないよ」
「そうか」
「私の再婚相手になってくれるの?」
蒸せた。
おれはコップの水を一気に奥へと流し込んで、呼吸を重ねて気を落ち着けた。
「うそうそ。ごめんなさい。このままだとバツ一になるし、身寄りもないし。私って、ほんと条件が厳しいよね」
「厳しいもんか。玲ちゃんなら引く手数多だよ。それから、その歳であまり生意気言ってると、律子さんや宏美みたいな怖いお姉さんたちにどやされるぞ」
「あはは。管理人さんが怖がってたって、二人に言っちゃおうかな~」
「……それは勘弁してくれ」
「宏美さんとか、管理人さんには当たりが強いもんね」
おれと玲は歓談を楽しみ、食後に珈琲を頼んだ。
携帯電話にはいつの間にか麻里亜と宏美からメールが届いていて、それぞれ「ごめんなさい。陸奥さんに誘われて二人で駅前にいます。場所はどちらですか?合流します」と「白川さんから聞いたぞ~。玲ちゃん連れ回してるんですって?応接で待ってるから帰りにお酒買ってきて」とあった。
最近はこんなことばかりだなと思いつつ、特に返信はせず玲にデザートのアイスを注文してやった。
店内を眺めやると、テーブル席はどこもかしこも男女の組み合わせになっており、若い者同士から年輩の方まで実に様々。
男女の数だけドラマがあるとは分かってはいたが、玲と一宮氏のそれはおれのような若造にとって些か刺激に過ぎた。
そして、おれと麻里亜とではドラマが始まってすらいなかった。
何の因果か三者面談にまで出張ったわけで、目の前の女子高校生が独り立ちするまでの間責任を持つことくらい、もはやおれの義務なんだと納得していた。
この広い世界、そういう奇特なドラマが一つくらいはあってもいいはずだと、嬉しそうにアイスを頬張る玲の顔を見ておれは考えていた。




