一.邂逅の四月
美味しい紅茶を入れる、可憐な女子大生兼管理人
一.邂逅の四月
二〇三号室の住人である一宮氏が失踪したとの連絡を受けたのは、学生食堂で安い珈琲を飲んでいた時分であった。
偶然にも大学構内で柳麻里亜の姿を見掛け、二人で昼食を共にしていたのだ。
「管理人さん、顔色が良くないですが……」
「ちょっと、ごめん」
おれはすぐにアパート「千夜ハイツ」の大家である叔父の携帯電話を呼び出して、一宮氏の件を伝えた。
そして麻里亜に断ってから、午後の講義を放り出して「千夜ハイツ」へと走った。
自室である一〇一号室に荷物を放り込み、鍵束だけを手にして隣の管理人室へと駆け込んだ。
リノリウム張りの床に貰い物の黒壇調のテーブルと椅子が四脚、くたびれた合成皮革のソファ、小型の冷蔵庫だけが配された八畳間だ。
おれの意向でここを共用の応接として住人たちにも開放していた。「千夜ハイツ」の固定電話もここに設置してあった。
部屋の奥にはもう一つドアがあり、鍵を開けると四畳半の管理人執務室が姿を現した。
こちらは畳敷きのため、靴を脱いでから上がった。
棚に積まれている入居者ファイルから二〇三号室の一宮氏を探し出した。
保証人の緊急連絡先を確認して電話を掛けるが、生憎と不通であった。
おそらくおれと同じように一宮氏の会社から連絡を貰ってバタバタとしていることだろう。
一宮氏は海外出張時の緊急連絡先に、「千夜ハイツ」の管理人であるおれの電話番号を記載していると言っていた。
会社組織なら、それとは別に社員の家族構成も把握しているはずで、保証人となっている親戚にも伝達するに違いなかった。
結局夜の七時を回ってようやく一宮氏の保証人と連絡がとれ、「失踪したというのは事実のようなので、安否の確認がとれるまでは家賃は当方で負担します」という言質をとった。
商売とは言え、嫌な交渉事である。
その旨は叔父にも一報を入れた。
何にせよ一宮氏の安否が不明なので、住人たちには特別案内をしないことに決めた。
一息つこうと扉を開くと、管理人室応接に麻里亜とスーツ姿の陸奥遼一、いつも通りに白ワイシャツに黒縁眼鏡という格好をした白川氏の三人が集まっていた。
「管理人さん、大丈夫ですか?ずっとこもっていたみたいですけど」
二〇二号室の住人、柳麻里亜が心配顔で尋ねてきた。
服装は昼間学生食堂で見た水玉模様のワンピースのままで、長い黒髪を頭の後ろでまとめていた。大学二年生らしい清楚な外見に、今日も今日で好感が持てる。
「ああ、うん。ちょっと急用が入っちゃって」
「そうですか……ご苦労様です」
「やっぱり。一宮さんが中東で行方不明になったという話は本当なんだね」
「えっ?」
「いやあ、僕も一応業界の人間だからね。そういう情報はすぐ耳に入るのさ」
一〇二号室の陸奥が得意げに語った。
麻里亜がいると、たいてい陸奥の自慢話は勢いを増す。
これでおれが案内を出さなくても、一両日のうちには「千夜ハイツ」中に知れ渡っていることだろう。
全く余計なことをしてくれたものだ。
陸奥は二十八歳で、大手の広告会社に勤務していた。
容姿や積極性に優れ、仕事もバリバリこなすそうで女性関係の噂には事欠かない。
現在は「千夜ハイツ」の姫こと麻里亜に猛アプローチをかけていた。
「……広告会社は広告業界。食品会社は食品業界。業界の人間と言っても、一体何が特別な意味を表すのか、よくわかりませんがね」
白川氏が持参のペットボトルのお茶を飲みながらぼそりと言った。
きっちり七三に分けられた髪型には一糸の乱れもなく、ワイシャツは糊がついたままのように張って見えた。
その様子は、とても一日仕事をしてきた社会人とは思えなかった。
三十を二つか三つ過ぎているはずで、入居時の記録では政府系の財団法人に勤務していることになっていた。
しかし、いつ仕事に行っているのかはよく分からない。
彼の言葉に二人とも反応を示さないので、おれは「マスコミ関係だけの習慣じゃないですか?」と返してやり、執務室を施錠する。
「陸奥さん、一宮さんの件は詳細が分かるまで騒ぎ立てないでくださいね。麻里亜さんも、白川さんもお願いします」
「分かっているよ、北条君。ねえ、柳さん」
「ええ。管理人さん、わかりました」
二人は言い、白川さんも首を縦に振った。
管理人室を出ようとしたところ、仕事帰りと思しき矢崎宏美が入れ違いで入室してきた。
「あら。私が来た途端に出ていくの?冷たいじゃない」
言って、片手を横に伸ばして、おれを通らせまいとする。
二〇五号室の宏美は今年二十五になる会社員で、学生時代はレースクイーンのアルバイトをして鳴らしていた。
顔立ちやプロポーションは驚くほどに整っており、今でもファッション雑誌の読者モデルを続けているという。
たまの休日には撮影だかで出掛けることが多かった。
「八時から律子さんの部屋に業者が入るんだよ。水周りの調子が良くないって」
「こんな遅くに?」
「律子さんの帰宅時間に合わせたから。教師はそうそう休めないって言うしね」
「……陸奥さん、二人きりにしちゃっていいの?あっさり麻里亜を落としちゃうかもよ」
宏美が小声で耳打ちしてきた。白川さんの存在はまるきり無視しているようだ。
おれは室内の掛け時計で時間を確かめて、宏美の腕を押し退けた。
「全く。つれないんだから」
ドアが閉まる直前にそんな非難の声が聞こえてきた。
郵便受けが並ぶエントランスに足を踏み入れると、ちょうど伊藤律子さんの帰宅と重なった。
「管理人さん、ただいま。風が強くて嫌になっちゃうわ。業者、もう来ちゃった?」
「おかえりなさい。春風ですか?髪ばさばさですよ。業者はまだなので、到着したら連れて上がりますから」
「お願いね。ちょっと着替えてくる」
言って、律子さんはカンカンと足音を立てて階段を上がっていった。
二〇一号室の伊藤律子さんは教師で、近くの高校で教鞭をとっていた。
御年三十一歳で、「千夜ハイツ」の良心ともいえる常識人だ。
細いフレームの眼鏡が似合っていて、聡明さや持ち前の快活な性格から、管理人のおれよりも住人たちに頼られている節があった。
水道業者の到着を待っていると、明智が外出するためにエントランスを抜けていった。
「行ってくるわ」
「明智、今日もカジノ?」
「おう」
長髪を無造作に後ろで縛っていて、それだけを見るとあの麗しい麻里亜と同じ形なのだが、美醜の差は如何ともしがたい。
無精髭は店で剃るのか、彼は最近違法な裏カジノでディーラーのアルバイトに従事していた。
明智は一〇五号室の住人で、二浪二留のため二十四歳になるも、まだ大学二年生であった。
おれや麻里亜と同じ大学に通っており、年が近いこともあって気安く話せる友人だ。
明智は年代もののパーカーに身を包み、背中を丸くしてとぼとぼと行ってしまった。
ほんの一時ではあったが、一宮氏以外の「千夜ハイツ」の住人が勢揃いしたことになる。
おれはエントランスに突っ立って、明日は掃き掃除でもしようかと考えながら業者を待った。




