O1-4
「朔鬼」
月明かりの下、縁側で丸くなっていると、視界の左隅にふさふさとした灰色の毛並みが見えて、子猫は身体を起こした。
「セン爺」
「何やら不機嫌そうじゃのう」
ひょこひょこと寄ってきて、小さく開いた窓から縁側に飛び乗り腰を下ろした老猫は、子猫の尻尾の揺れ具合を見てほっほと笑った。春に一匹で町の隅に転がっていた子猫を見つけ出し、彼女の元へ連れて来たのがこの老猫だった。身体中長い灰色の毛で覆われ、町の猫に聞いてもどのくらい長く生きているかわからない。仙人、否仙猫のような猫だから、皆『セン爺』と呼ぶ。聞くところによると以前は様々な呼び名があったようだが、ある人間が呼ぶようになったその名があまりにしっくりきたため、自然と統一されていったとのことだ。彼女と縁を結んでくれた存在でもあるだけに、朔鬼もこの老猫には頭が上がらない。
「聞いてよセン爺。朝の学校の男がね」
「ほう、ぬしが血相を変えて飛んでいったあやつか」
「そう、そいつ」
その時のことは今でも易々と思い出せる。ついでに感じた焦りと憤りも。
『……おい朔』
『ん? 何?』
『お前の主』
『みゅう? みゅうがどうしたの』
『男に言い寄られていた』
『なにぃぃぃぃぃぃぃ!?』
知らせてくれた仲間には感謝してもし足りない。飛び上がった勢いで校舎内を駆け抜けると、図書館へ向かう道の途中で彼女が男と一緒にいた。しかも手を掴まれていた。危うく飛び乗った勢いで顔面を引っ掻きにかかるところだったのだ。知り合いだったら彼女に気まずい思いをさせるというわずかに残ったまともな判断力がブレーキをかけた。果たして、彼女は混乱していたし怯えていたし困惑していたが、彼は彼女にとって無視できない存在だった。彼女はほんの少しだけ、揺れていた。その揺れ幅が広がったのが、先ほどのことだ。
「その男が、うちに来た」
彼女は学校を終えた後アルバイトに行く。学校から少し離れた個人経営の古本屋で、あまり目立ちたくない彼女にとってうってつけの働き先である。店主は初老の夫婦だが、彼女の事情を知り、彼女の性格を知り、ありがたくもあまり干渉してこないらしい。「みっちゃん」と呼んで可愛がってくれる上、たまにお裾分け、とおいしいお菓子を持たせてくれて、彼女がそれをひそかな楽しみにしていることを子猫は知っている。今日も仕事を終えた彼女が心なしほくほくとした顔で出てきたので何がもらえたのか聞いてみたら、鳩型のクッキーとのことだ。お土産に欲しいお菓子ランキングで常に上位を保っている銘菓らしく、以前一度もらっている彼女も例に漏れず気に入っていた。あの時は『猫が鳩を食べるシュールな図は見たくない』と食べさせてもらえなかったが、今回は一かけらくらいはお相伴に預かれるのだろうか。そんなことを話しているうちに我が家につき、門を抜けようとした時。
『……え、みぃ?』
どさり、と物が落ちた音と同時に、聞き覚えのある声が背後からかかった。彼女の身体が強張る。恐る恐る振り返ると、道の向こう側で、あの男が、学校で会った彼が佇んでいた。足元にボストンバッグが落ちている。どうして。彼女が唖然と呟いた。どうして、ここにいるの。子猫もあまりの衝撃で動けなかった。これはもしかしたらストーカーってやつなんじゃないかとぼんやり思った。思ったら、冷や汗が背筋を伝った。だが見当違いだったらしい。驚愕のあまり立ち尽くしていたらしく、我に返った男はバッグを拾うと一歩踏み出し、彼女が合わせて一歩下がったのを認めるとそこで足を止めた。
『動かない。ここから動かないから、質問させて』
子猫が抱きしめられる。頭の上で、彼女が小さく頷いた。
『みぃは、その家に住んでるのか?』
こくり、と首肯。
『記憶を失くしたときから、ずっと?』
また、首肯。その直後、子猫は彼女の心臓が跳ねる音を確かに聞いた。
男が泣きそうな顔で微笑んでいた。
『そっちへ行っても、いい』
震える声は切実さをもって彼女の耳を打った。心臓がまた跳ねた。
『頼む、そっちへ行かせて』
果たして彼女は頷いた。頷いてしまった。ゆっくりと近づいてきた彼は、三歩の距離を残して彼女の前に立った。実に絶妙な間合いだった。そうして彼は少しだけ瞳を潤ませて、彼女に笑いかけるのだ。愛おしむように。
『この家には、もともと俺が住んでいた。祖父母が亡くなったあと、一人で。で、覚えていないだろうけど、春間近の一カ月くらい、みぃ、俺たちは、この家で一緒に暮らしていた』
え、と小さな声が零れ落ちる。聞き間違いかと思った。聞き間違いであって欲しいと思った。
『う、そ』
『本当。雪解け前に俺は高校の卒業式に出るから都心の実家に帰らなくちゃならなくて、その時約束したんだ。すぐに帰ってくる。だから待ってて欲しい、と。結局なかなか帰ってこられなくて、やっと帰ってきたらみぃは記憶を失くしていて、でも、この家に、住んでいてくれた』
震える声からはただただ慈愛が感じられて、彼女はただただ困惑していて、子猫は抱かれるしかできなくて。あまりにきつく抱かれたから、彼に対して牽制も威嚇も、何もできなかった。一歩踏み出した彼の手が伸ばされて、彼女の頬に添えられるのを見ても、何も。
『ありがと、みぃ。待っていてくれて』
『わ、私は』
『覚えていないのも、そんなつもりじゃなかったのもわかっている。でも、俺は、嬉しい』
心臓が跳ねっぱなしの主を見上げて、子猫はただ途方に暮れていた。
「……それで、その男はどうしたのじゃ。まさか」
「うちに入れるわけないでしょ!?」
ふーっと毛を逆立てた子猫はよほど気に食わなかったらしい。
「その話になった瞬間牙剥いて脅しまくって、丁重にお帰りいただきました!」
それは丁重とは言わない、とは流石に胸にしまった老猫だったが、はて、と首を傾げた。
「それなら、そやつはどこに寝泊まりしておる?」
「あーなんか近所にアパート経営している大家さんがいるからそこでお世話になるってさ」
「……いつまで」
「……知らない」
いつまで。そんなこと、今の子猫は考えたくない。主の傍にいるのは、自分だけで良い。ずっとずっと、このままこの家で暮らしていきたい。それは決して、難しい願いではなかったはずだ。