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ゆきけしき  作者: 燈真
Oblivion1 雪会ーフタタビアウー
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O1-3

 中庭では元気な男女が雪玉を投げ合って遊んでいる。陽の光を浴びて雪の欠片がキラキラと舞う向こう側で、笑みが弾ける。その姿に今朝の子猫が重なって、彼女の口元は妙な具合にひきつるように緩んだ。どうして雪が降ると、若者は笑顔になるのだろう。彼女には不思議でたまらない。春の桜、夏の海、秋の紅葉に相当するのが冬の雪、ということになるのだろうか。夏の海同様、冬の雪はただ愛でるだけでなく遊びの対象になるから、あんなに楽しそうなのだろうか。もっとも、暑さを嫌って海に行かなかった彼女にはその楽しさが今一つわからず、飛沫く雪を波に置き換えて想像するしかないのだけれど。

 そんなことをつらつらと考えているうちに、不覚にもどうやら長く足を止めていたらしい。遊んでいるうちの何人かがちらちらとこちらに視線を送ってきていることに気づいた彼女は、慌てて踵を返した。すると焦ったせいで置いた足が凍った雪を踏み、ずり、と滑った。視界が勢いよく降下する。腰に衝撃が走って、反射でついた両手がじんじんと痛む。投げ出された足を見たまま、驚きに一瞬動けなかった。次に周りの視線を軒並み引き付けていることに気づいて、お尻の冷たさなど一気にどうでもよくなった。早く動かなくては。焦りには輪がかかるのに、羞恥と緊張で体が強張って上手く動かない。複数の足音がする。目を硬く瞑る。お願い、来ないで。放って置いて。

「―!」

 呼ばれた、気がした。どこかから、誰かに。瞑っていた目をゆっくりと開ける。陽の光が視界を白く染める。その向こうから、手が、差し出された。

「大丈夫か?―みぃ」

 男性の大きな手。灰色のダウンジャケットが目に入った。もう少しだけ視線をあげると、緩やかに弧を描く唇、すっと通った鼻、そして、細められた焦茶の瞳があった。少し長めの前髪は瞳よりも茶味がかっている。同じくらいの年齢だろうか。一瞬面差しが二重にぶれた。頭の隅が、記憶の隅が、僅かに揺れた。この男は、誰。

「手、貸して。―よ、と」

 するりと両手を取られ、軽く弾みをつけて立ち上がらせられる。よろけそうになるのを繋いだままの手が留めてくれた。気がつけば、先ほどまで痛いほど感じていた視線が四散している。知り合いがいたのなら、とそんな空気が漂っているが、問題はまさにそこにある。

「みぃ?」

 未だ離されていない手の存在に、その低めの体温に気づいた途端、彼女の背筋がぞ、と粟立った。反射で振りほどき、胸の前で合わせたままじりじりと、今度は慎重に後ろに下がる。自分はこの男を知らない。けれど、この男は自分を知っている。忘却した記憶の中のどこかにいるのだ、この人は。

「あの、ありが、とう、ございました」

「……は、何」

「そ、れでは」

 思い切りお辞儀をして今度こそ図書館に足を運ぶ。思わぬ時間を取ったが、席はあるだろうか。早く何かを手にしたかった。何でもいい。没頭できる本を見つけたかった。記憶が揺れたことを忘れてしまいたかった。それなのに。

「待て!」

 低めの熱を帯びた片手に手が取られる。肩に反対の手が置かれ、くるり、と反転する。顔を、覗き込まれる。

「みぃ、みつる、だろ? 俺だ。トーヤ。一年前、再会を約束して、予定より遅くなったけれど、ちゃんと、帰ってきた」

 彼の一言一言が頭の中で蠢く。記憶の蓋はどこだと荒々しく探し回る。頭が痛い。そんなのわからない。わかるわけない。わかりたくもない。

「手、は、離して。知らない。覚えてない。わからない……!」

 恐慌状態に陥り俯いてただ首を振り続ける彼女を見て、事情を悟ったらしい。彼はゆっくり肩から手を離した。握られた手の力が、少し緩む。

「……本当に、覚えていないのか」

「き、記憶、ないの。一年前から、ずっと。だから、貴方も、し、知らない」

 ごめんなさい、と吐息に混ざってささやかれたそれに、彼の吐息が重なった。

「……俺の、せいか」

 落ちてきた言葉に、その苦々しさに、俯いていた彼女の顔があがった。強く眉を潜めて、唇をかみしめるその表情に、困惑する。どうして、初対面の貴方がそんな顔をするの。どうして、そんなことを言うの。記憶を失ったのが貴方のせいとは、どういうこと。

 にゃ、と鋭い鳴き声が聞こえたのは、その時だった。肩に飛び乗った子猫が、ぐるる、と唸り声をあげる。彼の表情がふ、と緩んだ。

「それ、みぃの猫?」

「は、はい」

「……えらいな。ちゃんと主人を守れて」

 滲み出るそれはまるで羨望のようで、だから彼女は警戒心の奥で困り果てる。一体この男は自分の何だったのだろうか。

「みぃ、次、話をさせて」

 手から離れた手が、子猫の反対側を通って彼女の頭を掠めていく。それはほんの僅かのことで、彼女には撫でられたという認識すら起きない。ただ、少し低めの熱が頭に触れた、それだけのこと。去っていく姿がいかにも寂しそうで、何となく罪悪感が押し寄せる。ただ助けてもらっただけだというのに、ただ彼は再会を喜ぼうとしていただけなのに、混乱したとはいえ逃げ出して拒絶するとは失礼すぎやしないだろうか。でも、けれど、どうしようもないのだ。まだ手が震えている。

「今の誰」

「私のことを、知っている人」

「……そっか」

 子猫はそれで納得したらしい。ぺろり、と頬をなめてすり寄ってきた。

「怖かった?」

「……うん」

「苦しかった?」

「うん」

「気づくのが遅くなって、ごめんね」

「うぅん、ありがと、朔鬼」

 温かい。先ほどの男の手よりも、ずっと高い子猫の熱。強張った心をほぐしてくれる優しい温度。それなのに、どうしてだろう。頭の上を掠めた熱を、心の隅で気にしている。「再会の約束」という言葉が、鎮まったはずの頭の隅で回転している。彼女は肩から子猫をおろすと、しっかりと腕の中に抱きなおした。記憶なんて、ないままでいい。子猫と一緒に静かに穏やかに暮らす、それで充分。足元の雪が今更ながら存在感を放ってきて、眉が寄った。凍った雪に足を取られなければ、彼との出会いなどなかったのに。やはり、雪は嫌いだ。忘却の向こうから、有無を言わさず過去を連れてくる。

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