O1-2
ご飯と味噌汁という簡単な朝ご飯を口にして―当然子猫は猫缶をありがたく頂戴し―洗面所に向かう。ハーフアップにした髪をくるくると丸めて、赤い曼珠沙華の柄が入ったトンボ玉の簪で留めると、居間の壁にかかった紺のダッフルコートを白のセーターと深緑の膝丈スカートの上に羽織った。薄桃の裏地がついた焦げ茶の大きめのバッグを肩にかけ、少し悩んでからショートブーツのような黒の雨靴を出して足を入れた。その肩に、待ってましたとばかりに子猫が飛び乗る。横引の玄関扉を開けると、目の前に一面の白が現れて、彼女は早くも回れ右したくなった。何故今日は一限から授業があるのだろう。いや、しかし、この雪ならば案外町外から来る教授は電車の遅れや何かで足止めされているのではないだろうか。もし休校だったらわざわざ行っても徒労なだけだ。だが。
「ぅわっほーい!! 雪だ!」
勢いよく肩を蹴ってピョーン、と飛び出した子猫がそのまま大の字で雪に埋まる。ごろごろと転がってはきゃっきゃとはしゃぎ、かと思えばうさぎよろしく雪の上をひょこひょこ飛び跳ねる。思わずしゃがみ込んで見た足跡の小ささに彼女は口元を緩ませた。それからゆっくり腰を上げると、踏んで潰してしまわないように、おっかなびっくり門まで歩いて振り返った。自分の足跡と子猫の足跡が交錯しながら門の前まで続いている。何となく満足した。これで、充分。
「どうしたの?」
「何でも……ひゃ、朔鬼、冷たい! 毛に雪ついてる!」
「あれ? さっき払い落したはずなんだけど」
肩の上でブルブルっとされた日にはたまらない。彼女は慌てて子猫を叩き落とした。
山間に作られたこの町は決して大きくない。国立の大学が町役場と並んで中心部にあり、電車の本数が少ないので学生たちは基本的に大学の半径一キロ以内に下宿している。その範囲に合わせてマーケットや飲食店、娯楽施設がアパートや一軒家の合間にぽつぽつと建てられて、彼らの生活の支えとなっている。それより外側は、ほぼ田畑と山。つまるところ、学生で成り立っている町なのだ。彼女の住む家は歩いて十分というところにあり、大通りに出れば大学までは一本道だ。乗せたままでは目立つから、大通りに出ると子猫を肩からおろす。足の裏の冷たい感触を子猫はまだ楽しんでいるのか、尻尾を立て機嫌よさそうに彼女の後をついていく。大学の門の前で別れると、彼女は心なし俯いて、早足に校舎へと向かっていった。うっかり誰かと目を合わせたら、しかもそれが同じ講義を取るような人だったら、どうしていいかわからない。気づかないようにしていれば、誰にも声はかけられまい。掲示板をのぞくと、案の定一限は休講だった。仕方がない。一度家に帰るには、もう一往復あの雪道を歩かなければならない。その選択肢を彼女は即刻打ち消した。億劫すぎる。
ーとなると、二限までどこで時間を潰したら良いのだろう。
彼女は『時間を潰す』という行為が苦手だった。教室にはおそらく受講者たちが集まって雑談に盛り上がっているだろうし、食堂も自習や部活動の打ち合わせなどで人が多い。自分の顔を知って声をかけて来られては困るのだ。記憶がないから“昔”の話を問われても答えられないし、記憶がないことを根掘り葉掘り聞かれても何も言えない。挙句憐れまれて世話焼き精神を発揮されても困るし、野次馬根性を見せられるのも迷惑だ。静かに密やかに生活していくことが最たる安寧であると信じて、どうにかこの一年間をやり過ごしてきたのである。
さしあたって、彼女は迂闊に話に花を咲かせられないところ、図書館へと歩き出した。