8-5
「みつ、る?」
目の前の光景に理解が追いつかず、茫然と名を呼ぶ。そんな彼女に、彼は微苦笑を寄せた。
「美祐月、ちょっと、顔の横まで来てくれないか。動けないんだ」
その声に弾かれたように手膝が動く。這い寄っておそるおそる手を伸ばし、彼の頭を持ち上げる。揃えた膝の上に乗せると、その口元が綻んだ。
「良い眺め」
「ど、して、こんな」
「言ったろ。今の俺は魂が人の形取っているだけだって。何もしなけりゃ、もう少し長くこのままでいられたんだがな。少し張り切ったらこのざまだ」
右腕は切られ、従者の命と共に彼女に吸われ、彼女がその従者を救うために少しだけ手助けもした。「約束の時間」が縮まるわけである。
「さっき、朔の魂が逝っただろう。俺も一緒だ。もう、目こぼしの時間は終わったんだ」
彼女の白皙の頬が一気に青ざめた。
「た、太刀……!」
ずっと彼が支えにしていた、彼の命が詰まった太刀。伸ばした手の僅か先で、素知らぬ顔をして突っ立っている。これがあれば、あるいはまだ、間に合うかも知れないのに。もどかしさばかりが空を掴む。
しかし、柄へと懸命に伸ばすその腕を、彼がそっと掴んで止めた。
「それは、使うな」
「でも!!」
「美祐月」
名を呼ばれて押し黙る彼女の頬に、とても緩やかに彼の掌が添えられた。
「俺の願いを、聞いてくれないか」
「ねが、い?」
「あぁ。ずっと、言いたかったんだ」
そして彼は、幾度も胸の内で繰り返してきたその願いを、ようやく口にした。
「美祐月。俺を、食え」
脳裏に刹那、あの病室が蘇る。
『どうして、助けたんだ。あんた。雪女だろう』 助けて、元気にさせて、それから命を食らうのかと、自嘲混じりに問うた。いっそ食らってくれと願っていた。あの時から、想いはずいぶんと変わったけれど。
「俺の命も魂も、全部あんたのもんだ。ずっと、そう決めていた」
やっと言えた、と相互を崩す彼を、彼女は言葉を失いただ見つめる。
知らない。その選択肢は、はなから彼女の中に存在していない。考える前に、捨て去ったのに。
「や、だ」
「頼む」
「やだ、いや、いやだ」
白銀の髪が彼の頬を交互に叩く。雪の結晶が眉の上や鼻の先にはらはらと落ちる。激しく首を振る彼女の耳に、しかしはっきりとそれは届く。
「美祐月」
ずるい。ぐ、と唇を噛んだ。名前を呼ばれたら、自分は彼を感じるしかない。酷い。なんて強引で甘美で残酷な呪いなのだろう。
「美祐月。俺は、俺のままで、あんたの一番傍にいたいんだ。記憶をなくした俺は俺じゃない。あんたと一緒に過ごした記憶も、想いも、全部ずっと抱えて、誰よりも近くで、あんたを支えていたいんだ」
再び彼女の頬に添えられた掌からも、髪の先からも、魂の欠片が零れて宙を漂う。
「だから、食ってくれ。そうすれば俺が、あんたの中で、その暴走を制御する。闇に落ちそうになるあんたの背中を支えて、以前のように、さっきのように、こっち側に引き戻す。絶対に、誰にも奪われない。奪わせない」
それにな、と告げた言葉に、彼女は完全に二の句が継げなくなった。
「なぁ美祐月。もし万が一あんたの従者になったとしたら、俺は2度と、あんたの真名を呼べなくなるぞ。あんたは、それで良いのか」
あぁ、本当に、なんてずるい。力なく落ちていた彼女の手も、ゆるりと彼の頬を撫でた。何度でも、その温もりを自身に写しとるように。
「酷い」
「悪い」
「傍にいたかったのに」
「これからも、ずっといる」
「ただいまと、おかえりを言って」
「何度でも言うさ」
「たくさん話して、笑って」
「あぁ」
「手を繋いで、ぎゅっとして」
「あぁ」
「ねぇ、晃琉」
彼女の目元を、温かな親指がそっと拭った。その掌に頬を預けて、彼女もまた、ずっと聞きたかったことを問う。
「寂しくなくなったそのあとで、それでも、誰よりも晃琉とずっと一緒にいたいと願う、温かくて我が儘で、胸が締め付けられて、でも絶対に手放したくない、冬の日だまりのようなこの想いを、何て言うの」
二、三度目を瞬いて、それから彼が見せた表情を、彼女はずっと忘れない。
「美祐月、俺が間違っていなければ」
泣き出しそうな瞳で、震える声で、大事なものをようやく抱きしめられたような笑みで、彼はいつものように教えてくれた。
「そういう想いを、『愛しい』と言うんだ」
愛しい。名付けられた想いが、心の奥から溢れ出す。くしゃりと顔を歪めた彼女の頬から耳へと手が滑り、後ろ頭をそっと引き寄せた。
「美祐月」
触れあう寸前、吐息の下で彼がそっと囁いた。
「その願い、叶えてやる」
ずっと、一緒だ。
最期の一呼吸を、彼女の唇に捧げた。
青年の身体が淡い金色に包まれる。雪よりも儚く立ち上るそれは寄り添うように彼女を包むと、一度きゅ、と彼女を抱きしめ、緩やかに唇へと吸い込まれていく。全身を馴染んだ温もりが包み込む。最期の一滴を飲み下す、その寸前。
美祐月。
愛しさに溢れた声がその名を呼んだ。
膝の上をぼんやりと眺める。こんなにも軽く寒々しいものだっただろうか、と虚ろな心が呟いた。滔々と降り積もる雪が、参道に散らばった足跡を消していく。痕跡が1つひとつ、丁寧に拭われていく。先程まではあんなにも温かかった身体は、今は冷たくて仕方がない。今までは、これが普通だったのに。
ふと、視界の隅で鈍い光が2つ、雪に反射する。顔を上げると、浅葱色の太刀が半分雪に埋もれて突き立っていた。膝を立てて1足前に出す、それだけで簡単に柄に手が届く。僅かに積もった雪を払い、膝立ちのまま柄を握ってゆっくりと抜いていく。彼女の手の中を巡る波動は、よく知っているものだった。抜いた刀身をしばし眺め、す、と逆手に持ち替える。長すぎて柄に手が届かず、仕方なく両手で峰を持った。
ずぷり。彼女の胸に、刀身が沈み込む。半分ほど刺したところで、両手で柄を握り一気に押し込む。
「っは」
息を零した刹那、刀身が淡い光を放った。柄元から切っ先から、その光は彼女の身体の方へ集まってくる。まるで彼女の中の魂に呼応するように周りを囲むと、ふわりと包んで身体に溶けていった。一瞬感じた温もりが、再び静寂の中に消えていく。空虚な瞳が己の身体を見下ろすと、無遠慮に柄と刀身を握り、無造作に身体から引き抜いた。そのまま興味を失ったかのように雪の上に転がし、もう1つの光を追う。軽く雪を払った場所から出てきたのは、白銀の世界に鮮やかな漆黒と一筋の金を刷く、あの拳銃。両手で拾い上げ、胸に抱く。この銃の持ち主は、もうこの世界のどこを探しても、見つけることはできない。自分が魂の一欠片、命の一粒まで全て、食らってしまった。
「晃琉」
振り向いてくれる姿も、触れてくれる手も、応えてくれる声も、もうどこにもない。長い参道の果て、白く煙る世界に、彼女だけが、うずくまる。
「……っ」
たまらず拳銃を掻き抱いた。ほんの僅かでも良い。僅かでも、彼の温もりが残っていれば。その声の欠片でも記憶されていれば。
「……く、うぅぅ……」
けれど、どんなに探っても、壊れるほど強く抱いても、無機質な思い出の残骸は沈黙を重ねるばかり。
「……うそ、つき……」
雪のしじまに埋もれて、ただ独り、泣き伏した。




