Oblivion1 雪会ーフタタビアウー
もそもそと布団の中から這い出して、先だけが白い前足を思い切り伸ばしながら大きな欠伸を一つ。口の中に冷気が入り込んでくるけれど、黒い子猫はそれに震えることなく、こちらは先まで真黒な後ろ足を交互に一振りずつして冷え切った畳の上を足取り軽く歩いていき、障子をちょいちょい、と前足で掻いて少しだけ開けてから振り向いた。
「ほらぁ、やっぱり積もったじゃん。昨日僕が言ったとおりでしょ。全然聞かないで雨戸閉めるの面倒くさがったから、部屋がこんなに寒くなっちゃうんだよ」
障子の向こうがいつもより明るいのは雪が朝陽の光を反射しているからで、本当ならいちいち確認しなくてもわかること。それでも開けずにはいられないのは、子猫が「一面の雪景色」というものを初めて目にするからで。
「ねぇねぇ早く庭に降りようよ。雪だよ雪。こんなに白くなるんだねぇ。ねぇ、みゅうってば」
どれだけ彼が呼びかけたところで、布団の中から反応はない。仕方がない。子猫はひらり、と、やはり先端に白を持つ長い尾を振ると、こんもりと丸くなっている山めがけて突進した。
「ぅおりゃっ!」
山の上に勢いよく飛び乗ると、下で呻き声が上がった。僅かに力が緩んだのを見逃さず、布団の端っこを見つけて口にくわえ、思い切り引っ張る。
「起きろみゅー! 僕を庭に連れて行けー!」
「やぁぁぁ……出たくないぃぃぃ……」
布団の中からくぐもった声が弱々しい抗議の声をあげ、ぐい、と布団を引きあげようとする。そのまま無言の綱引き、否布団引きが繰り広げられ、結局顎が疲れた子猫が諦めた。隙間を見つけて鼻で押し広げ、もぞもぞと入り込む。外からの光が薄ら透ける布団の中で、彼の主は意外にもその茶褐色の目を、不機嫌そうではあるが、開いていた。
「どうしたんだよ。夏の暑さにバテていたから、てっきり寒いのは平気だと思ってたのに」
実際、昨日までは全然びくともしていなかったのだ。なのにどうして。
「……別に、寒いのがダメなんじゃないの」
すり寄ってきた子猫を抱えて、歯切れも悪く彼女は答える。
「好きじゃないの。雪」
「何で。白くてきれいじゃん」
言いながら、子猫は何となく彼女が次に言う言葉を予想していた。多分、これは。
「よくわからないけど、何となく。もしかしたら、すごく嫌なことがあったのかもしれない」
彼女には春からの記憶しかない。それより前は、闇の中。ただ、貴坂みつるという名前と、このそこそこ広い庭付き平屋に一人で住んでいることと、大学一年生であることと、それから、近所の書店でアルバイトをしているということだけ、知っている。知っているけれど、どういう経緯でそうなったのかは、わからない。とりあえず、知っていることだけを頼りに生活している。だからたまにこうして、過去に関わる何かを感じてしまうこともあるのだが、何にどうつながっているのかもさっぱりわからないし、子猫がそれを教えてやることもできない。なぜなら子猫は生まれてまだ数週間も経たない春先に、老猫に連れられてこの娘の元に来たのだから。
「……大丈夫だよ」
彼女が怯える度に、子猫はその頬を、手を、舐めてやる。
「大丈夫だよ。怖くないよ。僕がいるから。一緒にいるから」
「……ありがと、朔鬼」
時間も差し迫ってようやく身体を布団から引きはがすことを決意し実行に移せた彼女は、恐る恐る縁側に近づくとゆっくりと襖を開けた。差し込む朝光が喜々として漆黒の、胸下まである長い髪の上を滑る。しかし彼女は、目を刺すほどの輝きを放つ地上の白に眉をしかめる。
雪は、好きじゃない。何か悲しいことを、思い出しそうになるから。
胸を締め付けるような痛みを、焦がれるような情を、引きずりだしそうになるから。