O7-4
町から少し外れた山の中腹に、朱の鳥居が静かに佇む。間近で見上げる彼女の顔は晴れない。隣に佇む青年が、そ、と彼女の手を引いた。けれども足を踏み出したのは彼だけで、彼女の足は根でも生えたように動かない。
「みぃ」
諭すような声音に首を振り、来た道を振り返る。東の山間から細々と日が差し込み、玉砂利を、木の幹を輝かせた。枝に積もった雪がチカチカと光を反射する。昼前には、雪解けの神がこの辺りまで足を伸ばしてくるだろう。雪神がいつまでも人界に残っていてはならない。鳥居の門も、もうすぐ閉じる。わかっては、いるのだけれど。
「手を、離して欲しい」
ぽつりと呟いた彼女に、彼が一瞬探るような視線を向ける。
「逃げない。絶対、逃げないから」
その視線を真っ向から受け止めると、彼はそっと手を離してくれた。一瞬の解放と共に、本来の姿に戻ると、地を蹴って上空へと飛び上がった。鳥居よりも高いところで、朝日に守られた人界を見下ろす。この地で、1年間と数ヶ月、生きてきた。す、と伸ばした指先は、つづら折りの山道を指す。
あの辺りで、「彼」を見つけた。その涙の意味を知りたくて、急いで運んだのが、あの病院。あそこには、一体何回通ったのだろう。無茶をする人だった。いつも自棄的で、でも色々な事を教えてくれた。だから自分は、この1年を過ごすことができたのだ。あの辺りが、住んでいた家。毎日のように通った場所。あの場所で、自分と「彼」は互いの寂しさの在処を知った。そっと手を伸ばして繋がって、互いの風穴を情で埋めた。温かな「彼」の手が自分に与えてくれた数々のぶっきらぼうな優しさが、塞がった風穴の上に降り積もっていった。
もっと長く、もっと近くで、その温もりに触れていたい。その想いにどのような名前をつければ良いのか、そういえばまだ聞けていなかった。
「……会いたい」
どうして、会えなくなってしまったのだろう。どうして、思い出せないのだろう。頬の上を、雪の結晶が滑って風にさらわれていく。
「会いたい」
その顔を、眼差しを、声を、この目でこの耳で感じたかった。彼の名前を呼んだ時に、「何だ」とこちらを向いてくれる、その瞬間が好きだった。そして、彼が呼ぶ自分の名前が好きだった。
「私の、名前」
ピリ、と、こめかみが痛む。彼女に反応して降り始めた雪が、ゆらりと風に煽られる。
「私の、名前は」
その時。
「みゅう!」
ずっと聞きたかった声が、彼女の耳を打った。どこから、と必死で辺りを見回し、見つけるなり地に降りた。参道をひた駆けに駆ける子猫の姿が、そこにあった。
「朔鬼!」
駆け出そうとしたその手を、ぱしりと掴まれ引き留められる。
「離して」
どれだけ力を込めても、彼の手はびくともしない。
「トーヤ、離して!」
「いいえ、離しません」
突然変わった口調に、唖然とする。
「このまま、一緒に行きましょう」
「トーヤ?」
そのまま一歩ずつ、鳥居の方へと引きずられていく。目の前の男が、急に得体の知れない存在となって膨れあがっていく。
「やだ……」
足下の砂利が驚いた音を立てながら押しのけられていく。勝ち目のない綱引きに絶句する。あと少し、あの距離にいる子猫に、駆け寄ることができない。抱き上げることができない。話したいことが、確かめたいことが、謝りたいことが、あるのに。
その時。もうはっきり姿が見えるところまで駆けてきていた子猫の足が、不意にカクリと折れた。つんのめって転がり、倒れたまま動かない。
「朔鬼!」
「す、」
無我夢中で暴れ、手の力が弱まるなり振り解いて駆け出す。その耳が、微かな言葉を拾った。
喘鳴がどこか遠くに聞こえる。無様に玉砂利の上に転がったまま、子猫はどうにか四肢に力をいれようと躍起になっていた。けれど、どうにも動いてくれない。
「みゅう」
あの男に手を引かれ、嫌がる姿を認めた瞬間、体中が燃えるような錯覚に陥った。結局あの男は彼女に害を為す存在だったのだ。もっと早くに気づかなかった自分を責めるが、憎たらしいことに身体は1mmたりとも動かない。無理もない。ここまで一切速度を落とすことなく、全速力で駆け抜けてきたのだ。この身体が、この器が悲鳴をあげても仕方がない。でも、このあと少しが、恨めしくてならなかった。
「みゅう」
情けなさに吐き気がした。いつもそう。大切な者を守ることができない。傍にいることすら許されない。ただただ寂しさと無力感だけを残し、みんな自分の手の中から簡単に零れ落ちて消えてしまう。
「みゅう」
駆け寄って、あの男から引き剥がして、それから彼女の腕の中で話をするのだ。確かめたいことが、謝りたいことが、ある。そして、自分の願いを伝えるのだ。
「願い、を」
自分の願いは、誰よりも彼女の傍にいること。彼女を守り、支え、絶対に離れないこと。
「……そうだ」
その願いは、ずっとずっと前から、1年よりも前から、持っていたではないか。
「僕は」
薄ら霞む視界の向こうで、彼女が男の手を振り解きこちらに駆けてくる。あのおどおどしていた頃からは想像もつかない。けれど、その行動力に、いつも自分は驚かされ、そして助けられてきたではないか。
「みゅう」
違う。自分はそうは呼んでこなかった。ずっとずっと、どうして忘れていたのだろう。こんなにも穏やかで透明で、温かで綺麗な名前なのに。
彼の口元に、仄か笑みが宿った。
「美祐月」
はらはらと、眦から雫が溢れる。その名前を知っている。その声音を知っている。その温度で、その情で、彼女を呼ぶ人を知っている。
「朔鬼」
違う。自分はそうは呼んでこなかった。ずっとずっと、どうして忘れていたのだろう。こんなにも傍にあったのに。ずっとずっと、誰よりも傍にあったのに。
貴坂みつる。貴坂は、彼の母の旧姓。そして、みつるは。その名前は、彼女のものではなく。
「晃琉……!」
閃光が、迸った。




