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ゆきけしき  作者: 燈真
Oblivion7 刻限―ソノネガイハ―
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Oblivion7 刻限―ソノネガイハ―

 冷たいものがまた一欠片鼻先に乗って、子猫はスン、と鼻を鳴らした。すっかり見慣れてしまった雪に小さな足跡をつけながら、ゆっくりと大学の構内を歩く。授業はもうすっかり終わってしまったようで、学生の姿はまばら。特に3月に入ってもいっかな止む気配のない雪だ、用もないのにわざわざ足を運ぼうという学生は希少だろう。そんな中、変わらず機能している図書館の裏手に回ると、屋根と暖を求める先客が数匹。

「あらぁ、朔ちゃんまた来たの!」

「ここ3日間ずっと来ているが、良いのか?」

「あのお嬢ちゃんと何かあったのかい?」

「うーん、ちょっとね」

 億劫そうに後ろ足でカリカリと耳の裏を掻くと、暖のおこぼれに与るべく近寄って丸くなる。

「なぁに、喧嘩?」

「喧嘩、ではないけれど」

 突き放された感覚が蘇り、子猫は前足に頤を乗せて瞑目した。

「ちょっと、僕の存在意義が迷走中、というか」

 家を飛び出して来ちゃって、と呟くと、周囲がしん、と静まりかえった。室外機の唸る音を聞きながら、子猫は数ヶ月前を思い出す。初めてあの青年と対峙したのも、この図書館の前だった。あの時は、いやつい3日前までは、自分が彼女を守らなければと息巻いていたのに。

「なんだおめぇ、ついに盗られたか!」

 湿りきった空気の上を乾ききった声音が見事に空滑りしていき、追いかけて怒号と引っ掻き音と悲鳴が駆け抜けていく。そして再び、室外機だけが唸り出す。

「……そんなとこ、かも」

 ふは、と笑った声も、十分空滑りしている自覚があった。

「……今はどこに?」

「セン爺のところにおじゃましてる」

「爺さんは、何て?」

「別れに間に合うように帰れって」

 落ち着くまで、気の済むまでいれば良い。しかし、必ず別れを告げに行け。あのふさふさした尻尾をパタリと振って、老猫はそれだけを条件とした。けれど、顔を合わせて「じゃぁね」と笑える自信が、今の子猫にはない。

「そのお別れの日は、いつなのよ」

「……明後日」

 再び一斉に黙り込んだ先輩猫たちを前に、子猫は尻尾に顔を埋めた。額がむず痒い。僅かに痛みすら覚える。自分はどうしたいのだろう、何がしたいのだろう。そんなことをぐるぐると考える。

 あの青年が、彼女の記憶の中の青年でないかもしれない。彼女に詮索するなと言われても、どうしても気になってしまう。彼女に害を為す者ならば、何としても阻止しなくては- それが、彼女の望みに反するものでも? 暴いた先に、彼女の笑顔がある気がしない。そのことが子猫の思考を鈍らせる。だが、もしあの青年が偽者だとしたら、本物はどこにいる。

「……あ、れ?」

 先の白い尻尾がピクリと動く。何かを探すようにゆるゆると動いて、やがて子猫の顔が前足から離れた。ゆっくりと、目の前の先輩たちを見回す。急に顔を上げた彼に、何事かと視線が集まった。どうして、気づかなかったのだろう。

「……もしかして、誰か、あの家の本当の持ち主を、知ってるんじゃないの?」

 1年前に本物があの家に暮らしていたのは確かなのだ。生活圏を同じくする猫たちが、知らないわけがない。あの老猫を中心とした猫の情報網は、人間の想像よりも遥かに広いのだから。

 怖いほどの沈黙が襲いかかった。目を丸くした猫たちの反応を1つ1つ、じっくりと確かめていく。ヒゲを動かす猫、耳が立ち上がる猫、尻尾がじわりと動く猫。目を逸らす猫、唐突に顔を洗い始める猫。子猫の背中を冷気が抱きしめる。

「……皆、知ってたの」

 抑えた声は、それでも少しだけ震えを帯びていた。額が這うような痛みを訴える。それでも、目を逸らさずに、1匹1匹、覗き込むように視線を刺す。

「あいつが偽者だって、知ってたの」

「爺さんの指示だ」

 追及が呻き声に制された。目を背けたまま、あるいは俯いたまま、告白が並べられる。

「知ってたさ。忘れるわけがない」

「けれど、黙っていることにした」

「私たちだけじゃない、人間だってそうだ」

「朔の字の言うところの『本物』を知っている人間は、皆口を閉ざすことに決めたのさ」

 目眩がする。額の痛みがいよいよ主張を始める。衝撃が思考を貫いて散らかしていった。拾い集めようとして方法がわからなくて、それでも一番大事なものだけどうにか手に取った。

「どうして、黙ってたの」

 ひび割れたそれを受け取った猫が、しばし尻尾の上で転がしてから、ゆっくりと返す。

「お嬢ちゃんのためだ。記憶をすっかりなくしちまったお嬢ちゃんがあんまりに可哀想で、真実を伝えることがあんまりに残酷で、だから、爺さんが皆に言ったんだ。口を閉ざし、ただ温かく受け入れろ、とな。人間どもも、同じ選択をしたんだろうよ」

「それになぁ、朔」

 耐えかねたようにもう1匹が割り込む。

「お前のためでもあったんだよ。お前が嬢ちゃんとこの1年、心置きなく一緒に楽しく暮らしていくためには、俺たちゃ黙るしかなかったんだ」

 それ以上は、と隣の猫が制するのを、どこか遠くで聞いていた。額の痛みの奥、思考の欠片が這いながら集まってきて、繋がろう、組み立てようと糸を伸ばす。

 残酷な真実とは何だ。それが、彼女の記憶喪失に繋がっているのか。……では、自分のためでもあるとはどういうこと。自分「と」彼女「が」、ではなく、自分「が」彼女「と」、とは、どういう意味。たった1年生きてきた自分が、何故そこで絡んでくるのか。

 立ち上がると強い目眩に襲われた。額の痛みと合わさって、子猫の神経を苛む。それでも、1歩、また1歩と、彼は雪の中に歩み出る。

「朔?」

「……セン爺に、会わなきゃ」

 酩酊しているように数歩いき、そこで前足がくたりと折れた。

「朔!」

 雄猫数匹が走り寄り、1匹が首根っこを加えてもう1匹の背中に乗せる。老猫の名を譫言のように繰り返す子猫を背に、慎重に、しかし迅速に雪を散らして駆け抜けていく。

 子猫は知らない。ふらふらと歩いたその後ろ姿が、倒れる直前陽炎のようにぶれたことを。

「朔ちゃん……!」

 遠くなっていく雄猫たちの後を、痛切な呼び声がそっと追いかけていった。


 子猫が帰ってこない。身辺整理の手を止め、彼女はそっと庭先を窺う。飛び出していってもう3日。明後日には自分は彼と一緒にここを出て行かなければならないのに。

「……私の、せい」

 心からこの身を案じてくれたのに、耳を塞ぎ背を向けた。ずっと一緒にいた存在よりも、これから先いてくれるであろう存在に縋った。

「……1人で帰るのは、嫌だから」

 この3日間、彼女は彼女で様々に考えを巡らせた。仮に子猫の言うことが真実だったとして、それを彼に突きつければどうなるのか。彼女が最も望まないのは、自分の元を離れていくこと。たった1人で、神界に帰らなくてはならなくなること。一番望むのは、子猫の見間違いで、彼こそが記憶の彼であり、一緒に帰ってくれること。

 では、もし彼が偽者であったなら。偽って彼女に接触してくる目的は何か。記憶の「彼」は、どこにいるのか。彼女の思考は、いつもそこで止まる。突き詰めて考えてしまったら、何かとても恐ろしいものを釣り上げてしまいそうだから。

「……私は、トーヤと、帰る」

 言い聞かせるようにそう口にして、整理していた引き出しに手を入れた、その時。コツ、と爪先に、何かが当たった。固く冷たいプラスチックの感触。引き出したそれに、息を呑む。

「……これ……」

 黒光りするL字型の物体。プラスチック製の弾を込めて標的を狙い撃つ、拳銃。彼女は、それをとてもよく、知っていた。

「この、拳銃……」

 カチリ、と鍵の開く音と共に、彼女の脳内を記憶が埋め尽くした。

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