M7-3
時が刻まれる音だけが、茶の間を巡る。縁側で正座した彼女の手の上に。こたつに入ったまま黙する彼の肩の上に。静かに触れては離れていく。
「あと、3日」
「……うん」
互いの呟きが、ころりころりと転がっては消えていく。
「……ちょうど良かったんじゃないか。あんたは北へ行く。俺は卒業式に出るから西の実家に帰る」
「そう、だけど」
釈然としない面持ちで、彼女は膝を抱える。外では変わらず雪が降り続いていて、これは積もるな、と他人事のようにぼんやり思う。
「雪解けは、いつなんだ」
「あと、10日」
「そうか」
そうして、また沈黙が降りる。たまらなくなって、彼女はぽん、と人の姿になった。いそいそと畳を踏んで彼の隣に座る。仕方ない、とばかりに端に寄ってくれたその横から、こたつの中に足を入れた。並んで、そのまま再び、黙り込む。
「1日だけでも、抜けられないか」
ふと、隣で彼が呟いた。
「卒業式が終わったら、どうせすぐにこっちに帰ってくる。そうしたら、1日だけでも、どこかで、雪解け前に、会えないか」
話したいことが、あるから。
妙に固いその声音に目をぱちくりさせて、彼女はその横顔を見上げた。一瞬目が合い、すぐに逸らされる。それでも、返事を待たれているのがわかった。
「会、う」
掠れた声を、届ける。
「絶対、抜けてくる。会う。会いたい」
机板に片手を乗せ、もう片方の手で彼の腕を掴んで訴える。心なし仰け反ってた彼は、わかった、と言いながらもこちらを見ようとしない。目が合わない。……気にくわない。ぐい、と腕を握る手に力を入れて、机板から離した手を彼の頬に伸ばしかけ、す、と、力点を見失った。
「わ!」
「ばか!」
どん、と顔を肩口にぶつけた勢いのままに、2人仲良く畳の上に倒れる。驚きに硬直した彼女の背中から彼の手がずり落ち、力なく畳の上に落ちた。それで我に返り、両手をついて慌てて上体を起こす。視線を上げると、彼の顔はその手の甲で覆われ、目元がさっぱり見えない。おそるおそる名前を呼んでみる。唇がピクリとも動かない。よつんばいになったまま、そっと手を伸ばしてみた、その時。ふは、と、何とも間の抜けた空気音が彼の口から抜けていった。彼女の身体の斜め下、胸が小刻みに震えている。おそるおそる目元を隠す指に触れてみると、僅かに持ち上がったその下の瞳は、見たことのない色をしていた。
「はは。何か、もう、本当になぁ」
一体どこが突き抜けたのか、どこかピンと張っていたような感覚が、まるっと消えている。空気が、丸くて、柔らかくて、優しい。その真ん中で、いっそ無邪気と言っても良いのではないかという表情で、瞳で、彼はふはふはと笑っていた。あまりに見慣れなすぎて、そのせいか心が忙しなくて、何やら動悸までし始めて、彼女はただ、戸惑う。中途半端に浮いた手をそうっとひっこめようとして、途端にパシリ、と捕らえられた。勢いよく引かれて、もう一度彼の上にダイブする。
「な、に」
そのままころりと回転し、畳に転がったままだった彼の腕が、持ち上がった手が、彼女の頭を受け止めた。すぐ横に、彼の顔がある。まだゆるゆると解けている彼の瞳が、随分と近い。掴んでいた手が滑るように動いて、彼女の指を1本1本絡め取っていく。最後に軽く握られて、その心地よさに目眩がした。初めて名前を呼ばれた時の感覚に似ている。心の柔らかな場所を、羽毛で撫でられたような。でも、もし、今、呼ばれたら。
「あ、の!」
「ん?」
ふと閃いて、彼女は結ばれた手を振った。本殿の書庫で知った、この国の約束の仕方。今こそ実践する時ではないのだろうか。
「指切り、したい」
「……これじゃだめか」
「ちゃんと、するの」
「手の向きが違うが……良いか」
仕方ないな、と一度解かれ、すぐに甲の上から小指だけを掬い上げられる。それだけのことなのに、心が跳ね上がった。
「流石に歌は省略な。恥ずかしいから」
何でもないように言うが、今のこの状況が、彼女にしてみれば十分に恥ずかしい。指切りとは、こんなに至近距離でしなければならないものなのか。書かれていないし聞いていない。それでも、何度か深呼吸して、彼女は厳かにその誓いを差し出した。
「絶対、会いに来る。約束」
「あぁ。この家で、待っている」
目を細める彼の周りには、ふわふわとまぁるい空気がまだ漂っていて、彼女はどうしても落ち着くことができなかった。けれどそれは、決して居心地が悪いわけではなく、突き詰めていけば逆に良すぎて困るという類いのもので。はた、とそれに気づいた瞬間、本当に見事なタイミングで、彼が彼女の名前を呼んだものだから。
彼女はその手を振り払うなりこたつから脱兎の如く逃げ出だし、人身のまま雪の積もる庭へと突っ込んだ。とにかく、沸騰した体温を、頭を、心を、冷やしたかった。
「……あのなぁ」
「っぷし!」
すかさず前に吊されたティッシュを受け取って、鼻に当てる。後ろでバスタオルに髪を挟んでいる青年が、大きなため息を吐いた。案の定たちまち雪まみれになった彼女を彼が慌てて摘まみ上げ、風呂場に放り込んだのが先刻のこと。着物は一式ハンガーに掛けられ、だぼつくスウェットの上下に半纏まで着せられこたつに突っ込まれている有様である。
「感覚が全然違うんだ、雪神姿でもないのに飛び込むな」
誰のせいで、と言いかけてもう一度くしゃみが飛び出す。よし、とバスタオルを脇に置いた彼が代わりにドライヤーを手にし、慣れた手つきで丁寧に乾かしていく。彼女はただ小さくなって、出されたお茶をすするばかり。何故だろう。心地が良いのに、何となく解せない。加えて、先程絡められた指が自分の髪を梳かしていることに、背筋が無性にむずついて落ち着かない。こうして乾かしてもらうのはいつものことなのに、今日に限ってどうして。空の湯飲みを無駄に手の中で転がしながら、ただ1人途方に暮れる。
「よし」
最後に1つ頭をポンと叩かれて、温かな手が離れていく。名残惜しく感じてしまう自分は、やはり変だ。
そのままいつも通りに夕飯を共に囲み、そろそろ着替えて帰らねば、と腰を上げると、その手が再び捕らえられた。おそるおそる見下ろすと、そこにあるのは至極真剣な瞳。初めて出会った頃を彷彿とさせ目眩を覚えた。あの時はもっと青白い顔をしていた。危うくて鋭くて、彼女が見捨てるならば死ぬとさえ言った。生かす意義を答えさせられた。では、今は。
「北に行くまでの3日間、特別な準備や仕事はあるのか」
身構えていただけに、拍子抜けする。首を横に振ると、その口元がゆるり持ち上がった。あれ、と思ったときには、既に遅し。
「なら、ここにいろ」
「へ」
「向こうに戻っても特に用はないんだろう。なら、3日間、ここにいれば良い」
確かに用はない。本殿にも寄らなくて良いと言われた。どうせ明日も明後日も明明後日も、朝から晩までこちらに通う。ならばなるほど、居座ってしまっても何も問題はない。問題があるとすれば、先程から深い色の目を全く逸らそうとしない目の前の男と、煩い自分の鼓動くらい。それでも、と、彼女は思案する。
寂しさを見つけて、寂しさで繋がった2人だ。なら、互いの寂しさを互いで埋めたその先で、なお少しでも長く傍にいたいと乞う、この強い感情は何なのだろう。寂しさと名付けるには温かく、優しさと名付けるには我が儘で。胸が締め付けられるような、大声で泣き出したいような、そのくせ途方もない安心感と止まることを知らない欲求が一緒くたに存在する。寂しさとも好奇心とも違うこの感情を、人間はどのように名付けたのだろう。
知りたかった。この感情の、正体を。
「……わかった。いる」
ストン、と座り込んだ彼女を前に、彼はまた、ふ、と笑った。
「それじゃ、あんたはあっちの布団を使うと良い。俺はこたつで寝るから」
準備してくる、と立ち上がった彼を見上げ、目を瞬く。それは身体が痛くなるのだと、以前彼が言っていた気がする。帰省の長旅前にそれはよろしくないのではないだろうか。だから、それは、ほんの親切心だった。
「一緒で、良いのに」
目の前で彼が盛大に崩れ落ちていった。




