M1-5
「待て」
むんず、と袖を捕まれ着物が突っ張る。昨日と同じ状況に泣きたくなった。
「なんで!」
「まだ答えを聞いていない」
「なんの……!」
もう泣いていいだろうか。なんだかひどく振り回されている気が、自分のペースを見失っている気がしてならない。そんな彼女の悲嘆を知ってか知らずか、合わない歯の間から彼は唸った。
「俺を生かしてどうする。今、俺の命はあんたが握ってる。捨て置けば俺は生きることをやめる。食うと言うなら食われてやる。どうでもいいんだ、本当に」
「そんなこと……!」
「だから、あんたが俺をどうしたいのか決めてくれ。生きろというならその道を示せ。生かした者の義務だろ、それは」
理不尽だ。仮にも一応とりあえず神に、そんな義務なんてものを押しつけられたって。
「……知らない、と言ったら、死んじゃうの」
「言っただろ。どうでもいいんだ」
「……どうして、そんな、やけっぱちなの」
「……俺も、あぶれ者だから」
その一言に、かつてないほどに荒れ狂っていた心中がふと凪いだ。まじまじと団子になっている彼を見る。"あぶれ者"という言葉に、昨日から感じていた彼女の"何か"が引き寄せられている。もしそれが何なのか、知ることができたのなら。彼を通して"人間"を知ることにつながるのなら。
「……それなら、あの、なら、教えて」
「何を」
「あなたのことを。人間のことを。人間とは、何なのか。何をして、何を食べて、何を大事にして、何のために、何を求めて、生きているのか。教えて」
意表を突かれたようにぽかっと開いていた彼の目と口が、ややあってゆっくり閉じる。もう一度開いた時には、少し苦々しげな色が漂っていた。
「……それを聞いて、どうする」
「……わからない、けど、知らなくちゃ、いけないんだと、思う」
命を手の上にのせる、神として。自分の中にある感情を見極めるため。それから、従者へのいいわけという情けない理由も、少々。
深々とため息をついて、彼は布団の中に顔を埋めた。やがてぼそり、と小さく答えた。
「……それがあんたの望みなら」
不本意そうなその声に戸惑いながら、それでも一応了承ととっていいのだろうと判断した。……関係は、結ばれたのだ。袖から手が離れたのをしっかりと見て取って、彼女はようやく窓に手をかけた。このまま帰ってしまうのも何となく躊躇われて、言葉を探す。
「……なら、また、明日」
「あぁ、待った」
「な、何」
今度はどこも掴まれなかったが、前科がある分警戒して袖をかばいながら振り返ると、布団のふちから目元だけがのぞいていた。
「あんた、名前は。神様でも、名前くらいあるだろ。いつまでも『あんた』ってのは、ちょっと」
「わ、私は……」
刹梛氣は一応現状ではいつか継ぐ名であり人間が祀る名だが、これはまだ母のものだ。後継としての名は「彗姫」だが、これでは従者や神界の眷属が呼ぶのとさして変わりはない。一緒にするのは、嫌だった。となると、あとは。
「私、は」
そして彼女は彼に、真名を教えた。本来であれば名付け主である母しか呼ぶことのできないその名を、彼に差し出した。彼の声で小さく繰り返された自分の真名を聞いて背中が小さく粟立つ。心を柔らかく握られたような、綿の紐を結わえられたような、雛鳥の羽毛にそっと撫でられたような、得体の知れない心地。逃げ出したくなって窓を開ける彼女の背に、もう一度、はっきりと名が呼ばれた。その途端、見えない手に引かれるように、不自然なくらい自然に振り返る。そんな自分に気づくなり、彼女の心を掠めたのは怖れだった。彼に真名を渡してしまったことで、何か契約や制約が生じてしまったのではないか。この得体の知れない心地から、抜け出せなくなってしまうのではないか。
そんな彼女の目の前に、ふ、と、一つの言葉が、名前が落ちてきた。知らず下がっていた目線をあげる。こちらを真っ直ぐに見つめる彼の目と合う。手の上に乗った名前を、呟いてみる。その目がそっと細められた。
「俺の名前」
何か、ひどく大事なものをもらったような、そんな気がした。