O6-2
夜闇に滔々と降る雪を縁側に座って見上げ、子猫はしきりに耳をピコピコと動かしていた。彼からもたらされた彼女の過去を聞いてから、ずっと額の辺りがむずむずしている。コタツの足や障子の角で擦ってみたが、妙なむずがゆさはいっかな治まらない。
「寒くないの」
ふ、と影が差し、隣に彼女が腰を下ろす。
「寒くないよ」
「そっか」
膝を抱えて子猫と同じように暗闇の中の雪を見つめる。その横顔を、雪明かりにほのりと照らされ煌めく白銀の髪と白皙の頬を、子猫はじっと見つめた。
「あいつは」
「今、荷物取りに戻ってる」
「そっか」
「約束を早めて、ごめんね」
子猫と彼女が彼を迎え入れるかどうか、決めるのは本当は雪解けの頃だった。しかし今日、それが不可能だということがわかり、彼女はその決断を早めたのだ。記憶を取り戻すのが遅くなった分、一緒にいたい、いてほしい。それが、彼女の残り時間僅かな人界での望みだった。ならば、それを子猫が拒む理由はない。自分たちの家だと息巻いたのは僅か数日前、随分とあっけない開城だった。でも、仕方がない。彼女が同居を求めたのには、もう1つ理由があった。
『みぃ。頼みがある』
昼下がり、青年は彼女にそう告げた。
『神のもう1つの掟、あるだろう』
彼女の肩が跳ねた。結んだ口元に力がこもり、まつげが震える。
『知って、たんだ』
『当たり前だろう』
神は人に姿を見られてはならない。神は人と交わってはならない。侵した時の選択肢は3つだけ。
1つ。記憶を奪い二度と目に触れない。
2つ。我ら神の眷属にする。
3つ。その命を絶つ。
『みぃが帰るってことは、俺はいよいよ、この中のどれかを受けなくちゃいけないってことになるんじゃないのか』
本来は去年、受けなければならなかったもの。彼女が人身となってしまったことで、おそらく神界の混乱の中、目こぼしされたのだろうけれど。きっと今回は、免れない。だから。
『俺を、眷属にしてくれ』
『……え』
『俺は、やっぱり、みぃと一緒にいたい』
『で、でも、』
眷属になると言うことは、人の身体から魂を抜き、神の形に作り替えるということ。それは言い換えれば、人としての死。何より、神の眷属として生まれ変わることで、人であった頃の記憶は全て失われる。これまでの人生も、ここで過ごした日々も、彼女と交わした言葉も情も、全て、忘れてしまう。ただ、主従の関係が結ばれるだけ。
『知っている。でも、それが、俺がみぃの傍にいられる一番の方法だと思うから。みぃのことを忘れて、みぃのいない人生を送ることに、俺は何の意味も意義も見出せない』
何より、と彼は目元を仄かに緩めて笑う。
『俺はやっぱり、これからもみぃの世話をしたり甘やかしたり、したいんだ』
例え記憶をなくしても、眷属となった自分が彼女の傍にいられるのならば、それは本望なのだ、と、彼は告げる。
『例えみぃのことを忘れても、俺は絶対にみぃの傍を離れない。そういう風に、ここに、刻まれているんだろう』
服の上からそうっと押さえた魂の在処に、彼女の同じ場所がきゅぅと鳴く。温かみと痛みと、高く羽ばたけそうな想いと闇に堕とされたような想いとが錯綜して、悲鳴を上げる。それでも、長い逡巡の果てに、彼女は頷いた。
『……わかった』
『悪い』
『ううん。……私も、トーヤが一緒にいてくれるの、嬉しい、から』
神界に帰っても、自分は独りぼっちだ。
今までずっと、そうだったように。
だから、眷属として、例え従者としてでも、誰か1人傍にいてくれるのは、心強かった。
「……だから、せめて、私だけでも、色んな思い出を、たくさん、貯めておきたかった」
ぽつりとした呟きが、子猫の耳に届く。見上げたその額に、何か冷たいものが乗った気がした。彼女の眦には雫が乗っていて、だから子猫は1つの誓いを口にした。
「みゅう。僕は、覚えているよ。みゅうと過ごしたこの1年を、1つ残らず、覚えている。忘れるもんか」
虚を突かれたような眼差しを、彼は真っ直ぐ受け止める。
「人の記憶は奪っても、猫の記憶は奪わないでしょ。だから、僕はずっと、覚えていられる。忘れない」
だからさ、と子猫はふんわり目を細めた。
「僕はこの家でずっとずっと待っているから……冬になったら、会いに来てよ」
途端、彼女の目が丸くなった。やっぱり、と子猫は笑う。
「忘れてたでしょ、僕のこと」
「そん、な、こと、ない、けど」
「いーや! その感じは絶対忘れてた!」
「ち、違う、朔鬼は、ずっと一緒だと、思い込んでた、というか!」
そこで言葉を切って、彼女と子猫はじっと互いの目を見つめた。雪が、音もなくゆるやかに空気を彩り、1人と1匹を包み込む。
「お別れだね、みゅう」
「うん」
「みゅうを守るのは僕の役目だったけど、仕方ないから春から秋まではアイツに譲る」
「冬は?」
「冬は、僕がみゅうを独り占めするから、譲らない」
「そっか」
「そうだよ」
そうしてくすりと笑い合って、ふと彼女が手を打った。そのまま、どこかに力を込めている様子で目を瞑る。やがて、子猫の目の前で、白銀の髪が漆黒へと変化した。肌にわずかな赤みが差し、開いた焦げ茶の瞳が子猫に向けて微笑まれた。
「おいで、朔鬼」
「わぁい、何だか久しぶり!」
ぴょーん、と一飛び彼女の懐に飛び込むと、温かな両腕がしっかりと受け止めて抱きしめてくれる。ごろごろと擦り寄ると、額から耳の後ろにかけて、柔らかな掌がゆっくりと撫でてくれる。彼女の胸元に頬をつけながら、子猫はほんの少しだけ、ないた。




