M6-5
そのまま庭を突っ切り、一息に縁側を駆け上がってこようとした、その前に。
「だ、め!」
きらりと白銀の髪が広がる。青の曼珠沙華が鈍く光る。蝶帯を羽ばたかせ、一瞬で本来の姿に戻った雪姫が手を広げて立ち塞がっていた。茶の間に吹きすさんでいた風が止む。彼女が押し戻しているのだと知り、青年は目を見張った。
「どう、して!」
手を広げたまま、彼女が問う。
「どうして、ここに!」
「物わかりの悪い子ねぇ! 言ったでしょぉ! 独り占めは、ずるいって!」
なおも一歩踏み出そうとする侵入者は、そこで小さく舌打ちをした。縁側に仁王立ちした彼女の足は、一歩も後ろに引かない。
「……いつの間に、そんなに強くなったのかなぁ」
こちらに流された目線が、うっそりと歪む。
「やっぱり、ずるい!」
不意に、何かに引っ張られたように目の前の彼女がよろけた。すかさず少女の周りで風雪が爆発し、彼女を取り巻き持ち上げるなり、庭の壁に叩きつける。
「―――!」
悲鳴と共に庭に崩れ落ちるその姿を見るなり、身体が勝手に動いた。引き出しを開け馴染んだ感触を掴むなりロックを解除、装填し―間近に迫った少女の額に、銃を突きつける。
「……あぁら、ずいぶんと手荒い出迎えね」
「あいにく侵入者に遠慮する教育は受けていない」
「神にそんなおもちゃが効くと思ってる?」
「思っていないさ。でも、何事も試してみる価値はあるだろう?」
一切の躊躇いなく引き金を引くと、その少女は即座に数m退いた。甲高い音が1つ響いて、彼女の顔の前に現れた雪の板が砕けて落ちる。彼女自身に当たった形跡は、残念ながらない。
「まったく、物騒ね!」
「あんたにだけは言われたくないな」
庭先の彼女は動かない。駆け寄って無事を確かめたいのに、とてもそれどころではない。焦燥感がじわじわと身体を這う。
『近々、狙われるかも知れません』
数日前突如現れた彼女の従者の言葉が、耳の奥で蘇る。
『貴方はそれだけ、看過できない存在になりつつある』
「だったら、対処法を教えろってんだ……!」
低く唸り、もう一発、牽制がてら撃つ。今度は余裕で逸らされ、見た目は一般的に可愛らしい部類に入るであろう少女は、小さく肩を竦めた。
「面倒くさくなっちゃった」
ひゅお、と耳元で風が唸る。背筋がぞ、と粟立った。凄まじい悪寒が全身を包む。拳銃が凍り付き、持っていられず取り落とす。脳内でけたたましく警鐘が鳴り響く。これは、まずい。
「ねぇ、ちょっとちょうだい」
「こ、とわる!」
鼻先で愛らしげに微笑む少女を睨みつけると、彼女は頬を膨らませた。
「もう、どれだけあの子に洗脳されちゃってるのかなぁ! こんなに可愛い子が頼んでいるのにぃ!」
「洗脳なんて、されていない。ただ」
その可愛さが、自分にとって価値のないものだという、それだけの話だ。なぜなら自分は、ずっとずっと、出会った瞬間から、決めていた。
「俺の命は、全部丸ごと、あいつのものだ」
冷気が身体を絡め取り凍らせる。自由がきかない。自称可愛いその顔を醜く歪ませ、雪女が顔を寄せてくる。せめて最後まで心だけでも抵抗しようと、睨み続ける。彼の脳内を、優しい面差しが駆け巡った。その時。
ほんの数ミリまで近づいた彼女が、突然大きく喘いだ。かと思うと、がばりと離れるなり首を掻きむしり始める。何もない首回りを必死に掻いて掻いて、それでも苦しげに顔を歪める。青年の身体を凍らせていた冷気があっという間に遠ざかり、膝が砕けて畳に両手をつく。大きく息を吐き、どっと吹き出た汗を拭って顔を上げ、彼は見た。庭先で倒れていたはずの彼女が立ち上がり、こちらに手を伸ばしている姿を。その視線を追って、少女も気づいたらしい。
「あ、んた……!」
歪めた顔を反らせて彼女を睨みつけ、片手を伸ばす。その手が彼女を指す寸前、少女の首がぐい、と引っ張られた。ぐ、と篭もった声を上げて両足をばたつかせ、あっという間に縁側を越え、庭先へと放り出される。追いかけて縁側まで出た青年の目にも、はっきりと見えた。彼女の手から細かな雪の結晶で作られた指が伸び、少女の喉元を掴みあげ、宙に吊している。周囲を風雪が取り囲み、さながら檻のよう。少女の手がちらりとでも動こうものなら、たちまちするすると伸びて動きを封じる。青白い少女の顔が、その白さを増していく。これ以上続けると、人間なら死ぬ。
「……おい」
思わず声をかけてから、青年はギョッとして駆け寄った。おかしい。彼女は、こんなにも冷徹で冷酷な、情の欠片も存在しない表情は、しない。目には何の光もなく、ただただ無感情に相手を屠るような、絶対零度の気配。近づくだけで冷気に身体が震える、圧倒的な雪神の力がそこにある。
「……一体、どうなっているんだ」
おどおどしていて、でも存外我を通すところがある。超弩級の天然なのに、変なところで察しが良く、するりと心に入り込んでくる。痛みを知り、痛みを怖がり、痛みに寄り添う。そんな彼女が、目の前から消えていくような。これおそらく、錯覚ではない。
彼女の手の先にいる少女から、ついに抵抗が消えた。それでも力は緩まる気配を見せない。猶予が、ない。
「っこれは、あんたの専売特許じゃなかったのかよ……!」
一足飛びに茶の間に飛び込むと、こたつ布団をひっぺがす。抱えて庭に飛び出すと、彼は勢いよく彼女にそれを被せた。内側でぴしり、と音がする。冷気が布団越しに漏れ出る。それでも、彼は彼女を抱きしめた。頭を抱え肩に押しつけ、耳元で名前を呼ぶ。何度も何度も、繰り返し。
「戻ってこい……!」
ふ、と、荒れ狂う冷気が消えた。伸びていた手が、だらり、と下がる。後ろで少女が落ちた音がした。抱きしめていた身体から力が抜けて、危うくずり落ちそうになったのを慌ててしっかり抱え上げた。振り返ると、少女は力なく倒れている。背中が僅かに上下しているのを認めて、彼は大きく息を吐いた。さて、どうしたものかと思案していると、傍らで2つ、雪が渦を巻いた。一瞬人型をとったかと思うと、少女を雪で包み込んだ。一陣の風が吹いて、それきり姿が消える。庭を冬の穏やかな日差しが包んだ。
「……まぁ、万事解決、で良いのか」
縁側に包んだままの彼女を横たえ、青年も隣に転がった。
「……流石に、疲れたな」
彼女の従者に言われた言葉が、脳内に蘇る。彼女が後継者第1位、次代の雪大神・刹梛伎だということを、初めて知った。そんな彼女が置かれている立場も。そして、自分の位置も今後考え得る処遇も。
「……俺は」
手を伸ばし、彼女の頬があるであろう位置に添える。身体をずらして、布団越しに額を合わせる。そのまま、静かに目を閉じた。
「……ほう、これは」
脇息に肘をつき、掌の上に頬を置いて、当代は軽く片眉を上げた。その前では次代の従者が強張る顔で畏まっている。
「のう。あれが、鎮まったぞ」
「―!」
勢いよく上げた従者の顔には、満面に驚愕が貼り付いている。それを前に、当代はクツクツと笑いを噛みしめた。
「さて如何と思うたが、どうしてなかなか、上手く転がったではないか」
上機嫌に笑みを零す彼女の前で、従者が大きく息を吐く。深呼吸して、顔を上げた。
「では」
「そうじゃの」
当代も頷く。その顔は先刻から一転、少々険しげですらあった。
「雪解けの神が、近く日取りを整えに来られる。……春が、来るぞ」




