M6-3
朝議を終え、今日も書庫へ向かう主を送り、従者は1人、本殿の玄関へと向かっていた。ここしばらく、午前中は書庫に篭もり、午後から人界に向かっている。そして、どうやら人身に化けて件の青年の元に入り浸っているらしい。朝議に出ている以上本職の怠慢とは言えず、彼女もどうやらそれを狙っているらしいのだが、従者としては複雑な心情を抱かずにいられない。最近の彼女の行動力は、たまに予想の斜め上を行く。
ふと正面をこちらに向かってくる華やかな姿を認めて、彼は廊下の脇で膝をついた。
「あら、あなたは第1位の」
頭上からおっとりとした声音が降りてくる。後継第4位、白菫の髪の姫君。先日の会議で、遠回しながらも真っ先に彗姫を批判した、従者としてはあまり会いたくない姫である。
「今日はあなたの主はどちらに?」
「……書庫に」
「まぁ、勉強熱心で何よりなこと」
心底驚感した、そんな声音の裏で、侍らせた従者たちの笑いがさざめく。ふわり、と空気が動くと、視界にゆったりとした羽衣と白い手が映り込む。少し甘やかな香りが、俯く彼の鼻孔をくすぐる。まるで内緒話をするように、その姫は顔を寄せてきた。
「人界に、お気に入りがいるおかげかしら」
「……」
「あの娘を動かすのは、いったいどのような殿方なのでしょう。私も1度お目にかかりたいものですわ」
無言を貫く従者の耳に笑みを吹き込んで、彼女は滑らかに立ち上がる。
「いっそのこと、あなたも私の従者となるのはどうかしら。今よりも、確約された日々をお約束しますわ」
「おそれながら」
間髪を入れず返したその言葉に、そう、と1つ呟いて、もったいないと口々に呟く従者たちを引き連れ、その姫は優雅にその場を去って行った。気配が消えたのを確かめ、立ち上がりがてら息を吐く。こうして他の姫君から引き抜きの誘いを受けることは決して少なくない。従者からしてみれば主以外に従うつもりは欠片もなく、誘いはただの迷惑でしかないのだが、周囲の目はそうはとらえないらしく、酔狂だの何だの酷い言われようである。眼が曇っているのはどちらだと、鼻で笑って告げてやりたい。
それはそれとしても、と、腕を組む。やはり、件の青年の情報は後継者間に伝わっているらしい。あの引きこもり姫が人界に日参し、最近は朝議にも出席しているとあれば、それは勘ぐられもするだろう。当代が静観を決め込んでおり、従者も最低限の現状把握にとどめている。しかし、他の姫君たちが当代の意向を知っているとは限らない。雪神は―雪女は、元来人間を惑わす存在だ。
さて、どうする。
彼は玄関で草履をつっかけると、とん、と1つ、地を蹴った。
ふと室内の温度が下がったような気がして、青年は障子を開けて縁側に立った。この感覚は、彼女がやってきた時に似ている。しかしここしばらく、彼女は必ず人身で、律儀に玄関のチャイムを鳴らしてやってくる。とすれば。
目の前の風雪が、みるみる人の形をとる。すらりと高い背。桔梗色の着流し。白の髪は毛先に向かうに従って藍を帯び、後ろで結ばれ風になびく。前髪は整った顔立ちの周りを縁取り耳の前で揺れていた。深い藍色の目が、縁側の上の青年を射貫く。その鋭い視線を受けながら、彼は硝子戸を開いて腕を組んだ。
「一応、ここは庭も含めて俺の家なんだが」
「次回からはいかように?」
「せめて玄関のチャイムを押してくれ」
「承知いたしました」
慇懃に礼を返す彼を見下ろして、青年は目を細める。可能性があるとすれば、ただ1人。
「あんた、あいつの従者か」
「ご存知でしたか」
「前から『甘やかすな』と言いたくてたまらなかったんだ」
「……それは、重ね重ね、失礼を」
と、これは本音らしい声で詫びが入れられる。何か言い得ぬ苦労を感じ取り、うっかり同情しそうになった青年だが、ここで脱線するのは互いに本意ではない。
「これまで静観していたあんたが、何の用だ」
「情報の共有と、警告と、忠告に」
双方の視線が交錯する。空気が張り詰め、只人には聞こえない甲高い音を立てる。従者が口を開いた。




