M6-2
「……経緯はわかった。雪女が人に化けてどうこうっていう話は俺も祖母から聞いたことがある」
膝を揃えてちんまりと正座した彼女から話を聞くと、彼は深く嘆息した。あぐらの上に左肘を乗せ、左の掌に顎を乗せて、少し目を眇める。
「で、どうして、今更人間に化けようなんて思ったんだ」
「そ、れは」
頭の中に、一つの理由が浮かんで漂う。どうしても口に出すのが憚られる、朧ながら大事な理由。だから彼女は、一番まともな言い訳を口にした。
「人間に、なって、やってみたいことが、いくつかできた、から」
「ふぅん? 例えば?」
「お、買い物、行ってみたい。こたつにも、入ってみたい」
「……ほう」
「ご飯も食べてみたい。お風呂にも入ってみたい」
「待て」
ずい、と目の前に掌をかざされて口を噤む。自分の眉間を指で揉むその下から、唸るような問いが寄こされた。
「……それは、全部、うちで、か」
「うん」
何の躊躇いもなく頷くと、何故か彼は盛大に、それはもう先程とは比べものにならないほど深く長いため息を吐いた。
「お、お金、ちゃんと、持ってくる」
「あぁ、いや、そうじゃない。そういや、そうだったよ。あんたはそういうもんだった」
半ば呟くその眼差しはひどく遠い。半眼、と言っても良い。
「とりあえず」
「とりあえず?」
「こいつがこたつだ。こうやって足入れて、入ってみろ。あとで買い物行くぞ」
「! うん!」
早速布団をめくり、足を入れるなり歓声を上げる彼女の隣で、青年はひどく重たげに腰を上げ、別室へと消えていった。その背を見送りながら、机板の上に頬をつける。このこたつの布団を慟哭する頭に、背に被せたのは数日前。繋がった寂しさを抱きしめながら、彼女もまた涙した。それから数日、ずっと心に浮かんでいる1つの想い。彼女を人間に化身させた理由。
「……独りは、寂しいもの」
目を瞑って、小さく呟いた。
彼が別室から持ってきたのは、彼の母が昔着ていたという洋服一式だった。着物のままでは目立つから、と着替えさせられ、そのまま買い物へと向かう。食料やら日用品やらを揃え、帰りに古書店前を通ると、青年が店先に出ていた婦人に声をかけられた。
「どう? 元気にしている?」
「はい。祖母の時は、本当に、色々とありがとうございました」
「良いのよ。ずっと、仲良くしていたのだもの」 彼の腕に添えられた手は、どこまでも優しく見える。その手と同じくらい優しげな、涙が零れそうな表情を向けられて、彼女は一歩たじろいだ。
「素敵なお嬢さんまで連れて。きっと天国で喜んでいるでしょう」
慌てて頭を下げたその隣で、彼の乾いた笑いが宙を彷徨う。また顔を見せてね、という声に頷いて、踵を返して帰路に戻り、ふと気になって彼女は隣を見上げた。
「……喜んでる、の?」
「俺に聞くな……」
苦虫を噛み潰したような表情で低く唸り、それでも彼はゆったりとした歩調で、彼女の隣を歩き続ける。人間の姿で歩き慣れていない彼女にとってはとても助かる速さで、おかげで「靴擦れ」とやらの心配もなさそうだった。
ご飯作りを手伝い―青年に金輪際包丁を持つなと言い含められ―、早めの夕食を取り、片付けまで終えたところで、青年がひどく真面目な顔で尋ねてきた。
「本当に、風呂入るのか」
「入る」
「どうしても」
「前、お風呂は『最高だ』って言ってた」
がっくりと首を落とすその姿が、彼女には不思議でたまらない。風呂への興味を湧かせたのは、他ならぬ彼だというのに。彼が最高だというものに興味を抱くことに、何故ここまで渋い顔をするのだろう。
「まさか、入り方まで教えろとか言わないよな」
「い、言わない。勉強、してきた」
「……それならまぁ、良いか」
半分諦めたような表情のまま、彼は風呂場へと案内してくれた。タオルの使い方、風呂の手順、着替えの置き場所まで確認し、早々に彼女を置いて出て行ってしまう。
「……よし」
気合いを入れると、彼女は意を決し服を脱ぎ始めた。
結果として風呂は彼女のいたく気に入るところとなり、以後彼の家を尋ねた際の恒例となっていく。更に髪を濡らしたまま出てきた彼女を見た彼が大慌てでバスタオルとドライヤーを持ってきたことで、彼女の髪を彼が乾かすという図が確立されることとなった。
「これで、満足か」
机板に額をつけて、彼が呻く。
「うん、ありがとう」
外を見やれば、夜の帳が降りている。名残惜しげにこたつから出て立ち上がると、障子を開けて縁側に出た。後ろでごそりと音がして、彼が背後に立つ。
「また、その姿になるのか」
「……嫌?」
顔だけを後ろに向けると、部屋の灯りを背負い少し影が差した顔が、それはもう複雑そうに歪んだ。
「……色々、困る」
「こま、る?」
意図を知りたくて目の奥をのぞき込もうとすると、再び頭を掴まれた。頬に反対の手を添えられて、ぐい、と前を向かされる。不満げな声をあげると、ふ、と軽い笑みが耳を掠めた。
「こういうときは良いな。……あんたに触れる」
更に不満を重ねようとして、彼女は辞めた。縁側と庭を隔てる硝子戸。そこに映った彼の顔が、何だかとても、柔らかかったから。そんな顔をしているなんて、きっと彼自身も知らない。自分だけが、目撃している。そのことが、なんだかひどく落ち着かなくさせた。
1人庭に降り立ち、目を瞑る。器を溶かして、中の力を解放する。身体がぐん、と伸びをするような感覚と共に、馴染んだ空気感と体温が戻ってくる。目を開けて振り向くと、縁側の上、彼が目を細めてこちらを見ていた。やっぱり落ち着かなくて、くるりと背を向ける。
「か、える」
「あぁ」
ふわり、と舞い上がると粉雪が辺りに広がって、月の光を細かに反射し輝く。白銀の髪の上を月光が滑り、蝶帯が羽ばたく。そうして彼女は、来たとき同様粉雪を散らしながら帰路についた。




