M1-4
「な、んで、何、して」
空中で固まった彼女が思わず零したそれを、拾った風が届けたのか、つ、と彼の顔がこちらを向く。雪越しに目が細められたのがわかった。気づかれた。いると知られた。ならば、しなければならないことはただ一つ。
「逃げるな」
くるり、と袖を翻して逃げ去ろうとした彼女を、どうしてわかったのだろう、鋭い声が縫いとめた。
「そこにいるんだろう、雪女。逃げるんなら、あんたが助けたこの命、ここで捨ててやる」
一度助けたのなら、あとはもう彼の自由なのだ。命は彼自身の手に戻った。それをどう使おうと彼の勝手であって、彼女の関わる幕ではない。したがって決してこちらを足止めさせる材料にはならないわけで、だから彼女は逃げ去って良かった。むしろ逃げ去るのが当然であり、最適解であった。
しかし、彼女の足は止まってしまった。びくびくしながら振り返り、彼の瞳がやはり真っ直ぐに自分を捕えているとわかるとガクリと肩を落とした。どうして、なんで。問いたいことがむくむくと膨れあがる。膨れあがってそのうちに、頭を掻きむしりたくなるほどの苛立ちへと色を変える。そもそも、どうして、そんな格好で、そんな場所にいるのだ、重傷人が!
彼女はキ、と顔をあげると、一呼吸で青年に肉薄し、勢いを殺さずに右手でその腹を抱えた。そのまま彼を軸に一八〇度旋回し屋上の手すりを越えて急降下、彼が収容されている病室が無人で窓の鍵も掛かっていないことを一瞬で見て取り勢いよく開け放つと、飛び込んでベッドの上に右手の存在を叩きつけた。くるりと回って返す手で窓を閉めるのも忘れない。高く鳴きながら閉まったのを目の端に、彼女はまたくるりと反転して向き直って。
「な、んで、あん、な!」
彼を助けて以来数日ぶりの全力運動に肩を上下させながら、倒されたままの青年に荒い息の下で、めいっぱい抗議した。
「なん、の、つも、り、で!」
目を丸くした彼は、しばし瞬きを繰り返し、それから1人納得したように頷いた。
「会いたかったから」
「な、んで」
「聞きたかった」
「なに、を」
「俺を助けて、どうしたいのか」
その返答は、反芻を試みるまでもなく彼女の理解を超えていた。
「……どう?」
訝しげにことり、と首をかしげた彼女を見上げて、彼は口の端をゆる、と持ち上げた。何となく、好きじゃない笑みだと思う。
「俺はあんたに会わなければ死ぬつもりでいた。この前だって、さっきだって。でもあんたは二回とも助けた。雪女なのに。どうしてだ。助けて、どうするつもりだ。助けて、元気にさせて、それから命を食うか」
自嘲の笑み。自虐の笑み。そう思い当たった途端、背筋が粟立った。
「そ、んなこと、しない!」
「じゃぁなんで!」
ばふ、とベッドを拳で叩かれ食いつかれたその勢いと恐れに乗せられて、まくし立てた。
「この前言った!あなた、泣いてた!悲しそうだった!苦しそうだった!」
違う、それよりも、もっとちゃんと、あの時の彼の雰囲気を表せる言葉が、あるはずだ。もどかしくも必死にたぐり寄せて言葉にする。そう、あれは。
「さび」
その瞬間、青年の口元から笑みが消えたのが見えた。眉が寄せられ、瞳が細く妖しく光る。瞬時に伸ばされた手の平が、彼女の口を押さえていた。自分よりも少し高いその温度が、唇に触れている。それに気づくなり、彼女は息をのんで飛びすさり、窓ガラスに背中を押し当てた。通常の人間の体温は、雪の神には高すぎる。先ほどまで薄着で外にいた彼だから大事にならずに済んだものの、通常なら人間で言えば熱湯に手を入れるようなものなのだ。
一瞬見せた険しさから一転、驚きに目を見開いた彼の手がやがて下ろされ、拳から力が抜けた。腕に力が入って浮いていた上半身をまたベッドに沈ませる。ややあって再び口元に浮かんだ笑みは、しかし先ほどよりずっと力ない。
「……要するに、情けをくれた、ってことか」
情け、という言葉に内心首を傾げた。そんな、優しいものではなかったはずだ。もっと、自分勝手な感情。
「……未練のある人を、死なせたく、ない」
「未練……」
確かめるように反復されたそれすらもどこか綺麗事に聞こえて、彼女は思わず呟いた。
「……人の命、怖くて、食べたことない、し」
途端、ものすごく奇っ怪なものを見るような視線を寄せられて、慌てて口をつぐむ。けれど、青年はそれを放っておいてくれなかった。
「……怖いって、あんた、それが生業だろう。そんなこと言って、情けないとか怒られたりしないのか」
途端に蘇る、あの空気。ため息。冷淡な目。凍った言葉。失望。呆れ。諦念。怒りの段階なんて、たぶんきっと、とうの昔に過ぎている。小さく身体を震わせると、ふ、と、空気が、緩んだ気がした。視線を少しだけあげると、意外にも静かな眼差しとぶつかった。
「……あんたも、半端者か」
「……も……?」
追及しようとしたそのとき、部屋中に彼の大きなくしゃみが響き渡った。
「……寒い」
「……は?」
「感覚が戻ってきた。寒い。体震えてる」
歯を鳴らしながら布団をかき集めて丸くなる彼は、端から見てわかるくらい全身を震わせていた。それでも先ほどまで真っ青だった顔にはわずかに赤みが差し、唇も紫色が薄れている。あぁ、ちゃんとした人間なんだ、と、しみじみ見やって、それから我に返った。つまるところ、今日の本来の目的は何だったのかを思い出したのだ。無理だ。もう少なくとも今日は、この流れで記憶を奪うなんてそんなこと、到底できっこない。ならば。
「か、帰る!」