Oblivion5 共涙―フタリノタイカ―
頬に当たるものの固さと身体の痛みに、ふ、と意識が浮上した。ぼやけた視界の先に、板張りの床とコートの袖から出た自分の手、そして白銀の糸が広がっている。もぞり、と身動いで手と肘をつき、ゆっくりと上体を起こした。さらさら、と白銀の糸も一緒に動く。どうやらブーツを履いたままだ。ということはここは玄関で、帰ってくるなり倒れ込んで眠ってしまったらしい。身体が強ばるわけだ。視界にちらつくその糸を鬱陶しげに払い、ブーツを脱がなければと身体を反転させかけて、彼女はそこではた、と動きを止めた。ちょうど死角になっていた胸の下、少しだけ離れたところに、黒い子猫が横たわっている。
「……朔鬼?」
呼びかけてもピクリとも動かない。ところどころ毛並みが乱れ薄汚れて、普段の子猫なら絶対に舐めて整えていたはずで。
「朔鬼?」
眠っているとき、いつもならゆっくり大きく上下するお腹が、何だか動いていない気がする。
「朔……!」
強めに声を上げたその時、彼女は思い出した。どうして、子猫がこうなったのか。昨晩、何が起きたのか。この大切な自分の相棒は、暴漢に立ち向かって、そして倒れたのだ。自分はそれを助けようとして、手を伸ばして、そして。
「どう、なったんだっけ……?」
自分に外傷はない。ということは、彼を奪取して、とにかく逃げたのだ。多分。
「と、りあえず、ここじゃ、温かい、とこに」
もどかしく靴を脱ぎ、抱き上げようと触れたその瞬間、指先に焼けるような痛みを感じて彼女は短く悲鳴を上げた。弾かれたように反射で離れたその手を、つくづくと眺める。指先が火傷寸前のように、真っ赤に色づいていた。
「ど、して?」
もう一度ゆっくり手を伸ばすも、やはり子猫の身体は異常な熱さを放ち、彼女の手を拒む。
「何で、こんな、どう、したら」
とても動物のもつ体温ではない。彼に何が起きているのか、皆目見当が付かない。でも、触れられなければ、動かせない。動かせなければ、この寒い廊下で、彼は。
「や、だ」
身体が震える。目の前が暗くなっていきそうなのを、懸命にこらえた。何か、どうにかしなければ。彼をここから動かせないなら、ここでできる限りのことをしなければ。
「タ、オル。バスタオルなら、包めるかも」
急いで立ち上がり、廊下を駆けて洗面所に駆け込む。白銀の糸が視界の隅で舞う。積んでいたバスタオルを数枚まとめて抱え、踵を返しーチラ、と光ったそれに足を止めた。え、と声が零れる。
洗面所に据えられた鏡の向こう、知らない顔がこちらを見つめていた。驚くくらい間抜けな、ぽかんと口をあげて目を丸くした少女。知っているコートを羽織り、知っている柄のバスタオルを抱え、知っているよりもいささか血色の悪い顔立ちをしている。しかし、その髪は白銀、その瞳は白藍。どう見ても、この国の人間ではない。それ以上に、人間であるかも怪しい。こちらが身動ぎをすれば、向こうも同じように動く。乾いた口を閉じれば、向こうも口を閉じる。向き合い、互いに手を伸ばす。触れた掌からは、鏡の固い感触しか感じ取れない。
「……誰?」
問えば、鏡の向こうでも口を同じように動かす。背筋に悪寒が走った。鏡の彼女の正体を、知りたくない。知りたくないのに、鏡から離れた手は、徐々に彼女の肩口に、そこに流れる自らの髪に向かって動いていく。鏡の彼女の髪の色は、先ほどから何度か視界の隅にちらついていたそれ。意識から外していたけれど、とうとう無視できなくなった。鏡から視線を外さないまま、自分の手が肩口の髪を一房摘まむ。鏡の彼女の手も、同じように髪を一房摘まむ。そのままゆっくりと、目の前に持ち上げて、彼女は再び悲鳴を上げた。バスタオルが手から滑り落ちて足下に散乱する。その上に膝をついて俯き、大きく喘ぐ。視界の両側、両膝に向かって流れる白銀の糸、掴んで引っ張ると確かに頭皮が引き攣れ痛みを感じる。その痛みが、彼女を戦慄と混乱に突き落とした。
「何、これ……」
息が荒い。頭が痛い。目が眩む。
「どうして……!?」
いっそ、この場で気を失ってしまいたかった。これはきっと、昨晩の悪夢の続きなのだ。次に目が醒めた時は、全て忘れて昨日の自分のまま、子猫といつも通り過ごすに違いない。
しかしどんなに願っても縋っても、洗面台の角に頭をぶつけてみても、彼女が気を失うことはなかったし、夢からも醒めなかった。ただ、ぶつけた頭の痛みに悶えるだけだった。それが一層、彼女に現実を思い知らせた。
「……どう、して」
目の奥が圧され、視界がぼやけて揺れた。塊を無理矢理飲み込んだように喉の奥が痛み、震えて揺れた。苦しくてどうしようもなかった。子猫を抱きしめて、頬ずりして、思い切り泣きたかった。……そうだ、子猫は。
「……さく、き」
散らばるタオルをかき集め、洗面台の縁に手をかけて、よろよろと立ち上がる。ふらつく足を叱咤して廊下を戻り、先ほどと変わらず倒れる子猫の横にぺたりと座り込むと、バスタオルを重ねて掛けて、ゆっくりと上から撫でる。ピクリ、と投げ出された前足が動いて、慌てて声をかけるが、それだけだった。金色の丸い瞳が見上げてくることはなく、真っ黒なまぶたの奥に隠されたまま。
「さくきぃ……」
このまま、もし目が覚めなかったら。体中を縛る怖れは、必死で打ち消すのにすぐに這い上がって消えてくれない。涙がぼろぼろと零れる。嗚咽が漏れた。抱きしめたいのに、触れることすら許されない。もう、重ねたタオルの上から撫で続けること以外、何の手立ても思いつかなかった。
不意に、カリカリ、と小さな音が聞こえた。カリカリ。カリカリ。日の差し込む玄関戸の磨り硝子、その向こうに小柄な影が映る。前足で硝子を掻いているのだと、気づくのに少しだけ時間がかかった。その正体に思い当たるなり、彼女は弾かれるように立ち上がり、靴も履かずに戸を開いた。途端にするりと入り込んできたのは、子猫の客人である年老いた猫。苦もなく三和土に上がり、子猫の側まで歩いて行くと、鼻先でバスタオルを押し上げ、すんすん、と匂いを嗅いだ。それから彼の顔を舐め、身体を軽く舐め、玄関横に立ち尽くしたままの彼女の方を向いて小さく鳴いた。
「……セン、爺。助けて、くれるの」
真っ直ぐな瞳で、老猫はこちらを見上げ続ける。近寄って膝をつき、その毛並みに触れようとして、止まる。老猫からも、子猫ほどではないが熱を感じる。彼もそれを感じ取ったのか、自ら手から遠ざかった。引いた手を膝の上で固く握り、彼女は深く頭を下げた。
「お願い、セン爺。私じゃ、触れない。どうして良いか、わからない。お願い、朔鬼を、お願い、助けて」
小さな鳴き声が彼女の耳に届く。顔を上げると、老猫が、まるで親猫のように子猫の首の後ろを咥えていた。まるで、初めて出会ったのように。気づくと、玄関にもう一匹、老猫よりも一回り大きな斑猫がお腹を地につけ座っている。老猫がその背中に上手いこと子猫を乗せると、斑猫はゆっくり立ち上がり、玄関をぐるりと回るとこちらを向いて小さく鳴いた。そして、空いた戸の隙間からするり、と抜けていく。その後ろを老猫が、やはり挨拶するように一度鳴き、尻尾をひらりと振って抜けて消えていった。見送ってから戸を閉め、彼女はその場に崩れ落ちた。
「どう、か」
大切な相棒を、大事な家族を。すっかり変わってしまった現実の中で、今はただ、それだけを祈った。




