M5-2
肩にボストンバッグを担ぐと、反動で少しよろけた。まだ完全には戻っていない体力に、思わず舌打ちをする。ベッドの周りをゆっくりと見回して、最後に窓へと目を向ける。知らず目が眇められた。ここしばらく、その窓を叩く者はいない。思いがけず自分の過去を明かしたあの日からも、彼女は変わらず日参していた。過去の話にはもう触れず、いつも通りたわいないことを話し、また教えた。それが、ある日前触れもなくピタリと止んだ。風に流れ光る白銀の髪も、意外にもよく表情を変える白藍の瞳も白く透き通った頬も、掴むと怒る手触りの良い袖も、唐突にさっぱり見かけなくなった。さては、ついに飽きたか。厄介者払いができたと思う反面、何か腑に落ちないものが残って、どうにも心の居心地が悪い。
「来なくなるなら一言くらい言っていけよ、馬鹿」
ついぽろりと零したその声音に我ながらギョッとして、彼はもう一度舌打ちをした。振り切るように窓に背を向ける。もう、この病室で彼女に会うことはない。家の場所は言っていないから、来ることもないだろう。重くなる足を叱咤しながら一歩ずつ踏みしめ、思い出だけ何となく手放しがたくて後ろ手に握りながら、病室を後にした。
だから。
「あ、れ、どうして?」
会計やら何やらを済ませて病院を出た瞬間粉雪と共に上から降ってきた声に、彼は反射的に怒鳴っていた。
「退院するからに決まっているだろこの馬鹿雪女!」
ひ、と息を吸い込んだのはちょうど後ろから出てきた老婦人で。慌てて道を空けて謝ったが、当然ながら危ない者でも見るような顔で避けて通られた。笑顔で見送ってから改めて、横に降りてきた存在を睨みつける。
「重役出勤甚だしいこって」
「?? じゅ、やく?」
皮肉が通じないことほど虚しいものはない。盛大にため息をついて、彼はよろよろと歩き出した。彼女がまるで当然のように後ろをついてくるのに言及する気力もない。数分前の自分は闇に葬ることにした。
「じゅ、やく、しゅきん、て?」
「もう良い。単なる皮肉だ」
「ひ、にく」
「食べ物じゃねぇぞ。褒めてもいないからな」
「え、と」
そこで彼女の言葉が途切れたが、気にしてなるものかと、だいぶ調子の戻った歩みを進める。と、後ろであ、と小さな声が上がった。ついで、右側を冷たい風が抜ける。彼の前へと回り込んだ彼女は、そこでぺこり、と頭を下げた。
「来るの、遅くなって、ごめんなさい」
意表を突かれて足を止めた彼の前で、俯いたまま必死に言葉を連ねる。
「その、ちょっと向こうで色々あって、その、しばらく寝込んで動けなくて、それで」
寝込む。青年は目を瞬かせた。神でも寝込むのか。ようやく多少不自由なく動かせるようになった右手を伸ばして、額を隠す髪をどけようとして、そこで、止まった。
「!?」
気づくなり彼女が一歩飛び退く。中途半端にあがったまま止まる手の向こうで、額を両手で押さえた彼女が訳もわからず、という具合で慌てふためいていた。
「え、な、何?!」
「あー、悪い。忘れていた」
行き場のない手を軽く振って、ゆっくり下ろす。そうだ、彼女には、触れられない。なおも困惑し警戒する彼女は、そういえばその習慣を知らないのではないか。
「人間はな、寝込んだ相手の様子を見るのに、額に手を当ててその体温を測るんだ。ついその癖が出た」
「手で、体温を、測る……?」
他意はないと知った彼女が恐る恐る近寄ってくる。右手を出すように言われて差し出すと、触りはしないもののマジマジと見られる。何となく、居心地が悪い。やがて彼の手を視線から解放した彼女は、しみじみと頷いた。
「人間の手は、高性能……」
「おい、何か誤解していないか」
思わず口を出すと彼女ははて、と首を傾げる。ため息が出た。
「正確な体温なんてわからないぞ。ただ、普段より高いか低いか、自分の体温と比べてどうか、それを知って相手の体調の判断材料にするんだ」
「へぇぇ……」
しきりに頷いてから、やはり首を傾げる。今度は何だ、と思っていたら、思わぬ言葉が飛び出した。
「でも、普段、知っていないと、わからない? 知らない人、びっくりするし、仲良し、家族……近い人じゃないと、わからない?」
「……まぁ、知らない人にいきなり額触られたら、驚くな。少なくとも知り合いでないとできない方法だ」
自分のしゃべっている声がなんだか遠く感じる。
『あれ、あんたちょっと顔赤いんじゃない!?』
『えぇぇ、だいじょうぶだよぉ!』
『いいからほら、こっちきておでこ出して! あぁほら、やっぱりちょっと熱いわ!』
洗い物終わりで少し冷たく気持ちの良かった、母の手。
『具合はどうだい? よく眠っていたねぇ』
『……もう平気』
『どれどれ。……あぁ、さっきより下がったねぇ。何か食べるかい?』
少しかさついて温かかった、祖母の手。
『いっつ!』
『おい、どうした、寝ぼけたか? たんこぶできてるんじゃねぇか?』
『んー……』
『ほれ、見せてみろ』
固くて厚みのあった、祖父の手。
『……』
『……何だよ。寝てただけだ』
『……』
『……遊べってか』
義母のいない間にこっそり構ってやっていた、心許せる唯一の親友の、小さな手まで思い出した。
もう、誰もいない。
不意に、名前を呼ばれた。目の前で手を叩かれたように、我に返る。目の前で1人の異形の娘がこちらを覗き込んでいた。
「大丈夫?」
「……あぁ」
頷いて心に活を入れる。しっかりしなければ。これから帰るのは、彼らの残滓が色濃く残る場所だ。
「そっちこそ、具合は良いのか」
「……大丈夫」
しっかり頷いた彼女が束の間黙り込む。影の差した表情は、あまり見ない類いのものだ。
「……なぁ、」
問いかけて、止めた。向こうの事情とやらは知らないが、少なくとも人間風情がおいそれと訊くものではないだろう。だから、代わりに気になっていたことにすり替える。
「あんた、このままうちまで付いてくるつもりか」
「……え? うん?」
当然のように頷かれて、むしろ何故そのようなことを訊くのだというような不思議そうな顔までされて、彼は自分の顔が少し引き攣るのを感じた。憑かれるとは、案外このような状態を言うのではないだろうか。




