O4-5
異常な冷気に、子猫はうっすら目を開いた。全身が痛みを訴えて、尻尾の先すら動かせない。塀に叩きつけられたあとの記憶がない。ゆらりゆらりと、僅かに揺られている。心臓の音が聞こえる。冷たくも柔らかく自分を包んでいるものは、ひどく知っている気配がした。
……生きている。
「……みゅ、?」
まだ少し霞む視界で、自分を抱いているであろう主を見上げ、子猫は息をのんだ。
「……みゅう?」
いつも控えめながら柔らかな雰囲気を持つ面差しが、凄然なまでに冷え切っている。瞳は白藍に輝き、艶やかな髪は雪を弾いて白銀に輝き風に舞う。こんな彼女は、見たことがない。いったい、何が。真っ直ぐに見据えている何かを追って、痛みにままならない首をゆっくり動かすと、すぐそこ、雪が激しく渦巻く中心に、大きな雪の塊があった。地面から2本の柱がたち、その上に大きな丸い玉が乗っている。丸い玉の横からは2本の棒が突き出ていて、それがまるで丸の上の小さな丸を庇っているようで。その小さな丸の一部が色を変えていることに気づき、よくよく目をこらして、子猫はその正体を知った。腕の影で雪から免れた顔の半分、かすかに聞こえる呻き声、それは先ほど自分たちを襲った男だった。
「……みゅう、が、やった、の」
痛みも忘れ唖然と呟く子猫の顔に影が差した。片腕で子猫を抱き直し、もう片手をゆっくりと上げながら、彼女がまた一歩歩み寄る。人差し指をつい、と伸ばし、今にもその男に触れようというように。彼女の口元が、緩く弧を描く。ともすれば小首すら傾げそうな、しかし瞳には何の情も映さずに、蕩けるように囁いた。
「雪に食われて消えるが良い」
子猫は咄嗟に飛び上がった。痛みが身体を貫くがどうだって良い。これは、させてはいけないことだと、本能が叫んでいた。彼女がしようとしていることは、多分人殺しだ。そんなことを、優しい彼女にさせてはいけない。
「みゅ、う!」
渾身の力で伸びていく腕にしがみつく。
「みゅう!」
たとえ彼女が何であっても、守らなくては。彼女の心を、守らなくては。
「みゅう! 止まれ!」
叫んで目を瞑り、思い切り牙を立てた。
風が止む。音が消える。荒れ狂う雪が、鎮まっていく。瞑った目をおそるおそる開けてみる。しがみついた腕のその先。男に触れる数センチ手前で、彼女の指は止まっていた。男の身体を覆う雪があっという間に崩れ落ちていく。膝下が解放された瞬間、男は音もなく雪の上に倒れ込んだ。
「みゅう」
牙を離して呼びかけた子猫の金の瞳と、その主の白藍の瞳がかち合う。その奥が僅かに揺らいだのを見て、子猫はゆっくり囁いた。
「帰ろう、みゅう。僕、疲れちゃった。みゅうも、疲れたでしょう? ……帰ろう」
さくき、と吐息に乗せられた名に、にゃぁ、と答える。しがみついていた前足を離すと、両腕で抱きくるんでくれた。冷たいけれど、柔らかな手。ゆっくり踵を返して歩き始めたのを感じながら、子猫の意識は安堵の闇に沈んでいった。
朱色の鳥居の向こう側を、一際高く大きな屋敷ー本殿の渡りに立って見つめていた女性は、さらり、と紫を帯びた銀色の髪をゆらし、真っ白な衣を翻した。
「……これは少々、調節せねばならぬかのぅ」
その夜中、一陣の雪風が吹いた。
そして翌早朝。通行人によって、巷を騒がせていた変質者の凍死体が発見された。
彼女は眠る。子猫と共に、玄関を入ったところで力尽きたまま、ただ眠る。




