M4-4
最後の方はほぼ寝息混じりとなった彼女を、従者は沈黙をもって見守っていた。そして、完全に眠りに落ちたのを見届けると、静かに手を離す。その手の傷をもう一度まじまじと見つめて、やはり苦笑した。
「本当に、これだけで済んだことを幸いに思わなければ」
それから音もなく立ち上がると雪姫の眠る部屋をあとにし、当代の部屋へと向かう。入れ、と言う声に従い襖を開けると、当代は脇息にぐったりともたれかかっていた。
「彗姫が、目覚められました」
「そうか。意外に早いのう」
「やはり、覚えておいでではなく」
「であろうの」
それきり、2人の間に沈黙が降りる。跪いたまま身動き1つしない彼に、ややあって当代が力ない声をかけた。
「何か、言いたいことがあるのではないか」
「……」
「何故あれを、皆に公表せなんだか、その理由を知りたいか?」
「……はい」
何があっても、どんなに抵抗しても、決して姫から手を離すな。当代に命じられたことを忠実に実行した末に起きたことは、従者にも強い衝撃を与えた。これまではどこか漠然としていた確信が、根拠を得てより一層確かなものになった。かの姫はやはり、紛うことなく後継だった。しかし、本殿に戻る直前に当代に言われたのは、「他言無用」。今日の出来事の真相は、ただ闇のうちに。
「ぬしは賢い。あんなものを公表すればどうなるか、考えればわかるじゃろう」
そんなこと、簡単に想像がついた。普段あれほどまでに大人しく非力で弱々しい彼女である。もし、あれが明るみに出たのなら。
「あれは、殺されるぞ」
床についた拳が硬く握られる。
「……待つしか、ないのですか」
「とはいえ、あまり時間がないのも確かじゃの」
「……と、仰いますと」
「見るが良い」
促されて顔を上げると、当代は、それはそれは億劫そうに脇息から身体を持ち上げた。が、すぐに肘が折れ再び脇息の上に倒れ込む。咄嗟に腰を浮かせた従者を手の動きで制すがその動きはひどく緩慢。それが示唆するものを理解し、彼は色を失った。
「のう。我は歴代の中でもなかなかに強い方であろう?」
「……最強と謳われている方が、ご謙遜を」
「その我が、あれを押さえ込むのにこれじゃ」
彼には、応じる言葉が見つからない。
「以前はのう、もう少し容易かったのじゃ。それが、今はこれじゃ。あやつは、いずれ我には押さえられなくなる。何か、手立てを考えねば」
「……もし、手立てがなければ」
その言葉を思わず口に出してしまったことを、従者は後悔し続けることになる。覇気を失い全身に疲労をまといながら、その瞬間当代の瞳が苛烈に閃いた。
「その時は」
低い呻き声が、彼を絡め取った。
「その時は、我が責任のもと、あれを殺す」
鳥居を潜った従者は、1人ゆっくりと空を切って飛ぶ。途中でいくつもの赤いランプを見た。バラバラとけたたましい音を響かせながら旋空する数台の乗り物を避け、ある場所に降り立った。
山間に広がる、一面の雪景色。両山は雪化粧を施し、麓に広がる集落の屋根には柔らかな雪がずっしりと乗っている。庭の木々は、あるものは耐え抜き、あるものは枝を折られ、あるものは幹ごと横薙ぎにされ倒れている。動いている車は一台もなく、人っ子1人見かけない。これが雪深い村の、本来あるべき姿といえる。
しかし、その集落を知るものが見れば、愕然とするだろう。この村の面積は、こんなにも小さかったか、と。
雪の中から、車のタイヤが覗く。家の屋根だったものが覗く。信号機と思われるものが覗く。切れた電柱の線が力なく投げ出されている。両山の木々が、広範囲に渡り山中から麓まで綺麗になぎ倒されて真っ白な肌を見せている。扇形に広がった雪はトンネルを埋め、村の両側をも埋め尽くし、そこで不自然に止まっていた。
その境目を、従者は両の拳を握りしめて見つめていた。片方の拳で、どうしようもなくこみ上げる畏敬と恐怖を。そしてもう片方の拳で、どうしようもなく湧き出てくる興奮と歓喜を。強く強く、握り込んでいた。
手立てを、考えなければ。




