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ゆきけしき  作者: 燈真
Memory4 覚醒―ソノテダテヲ―
25/69

M4-2

「久しいの、」

 従者に連れられて本殿の当代の室に案内された彼女は、呼ばれた真名に瞳を揺らした。最近その名を呼ぶのは、もっと低くてほんの少し掠れ気味の声だったから。名付け親が呼ぶことなど当たり前なのに、不思議な心地にさえなる。本当に、久しぶりだった。

「息災か」

「……はい」

「何やら人間相手に面白いことをしておるようじゃのう」

 思わず後ろに控える従者に目をやった。すました顔を崩さない彼に歯がみをする。と、くつくつと笑う声が彼女を追いかけてきた。

「そやつを責めるのはお門違いというものぞ。我が知らぬと思うておるぬしが甘いのじゃ」

「……はい」

 刹梛伎は、全ての眷属の動きを把握している。ましてや、後継者のことなどお見通しである。当代は特に、把握したことを1つ漏らさず自身の手駒として使っていくことに長けている。時に奔放に、時に容赦なく、まさに雪神の長としての性質を存分に備えた、全眷属が誇り畏敬を抱く大神。彼女が当代を苦手とする理由の1つである。

「見抜かれるのが嫌なのなら、諦めてしばしばこちらに顔を出すのじゃな。己の従者に朝議の代理をすっかり任せおって」

「……」

「まぁ、それを良しとしたのは我じゃがの」

 わかっているのならわざわざあげつらわなくて良いではないか。胸の中に湧いた抗議を、しかし彼女は押し込めた。どうせ全て、お見通しだ。

「しかしのう、他の候補者が数日に1度は顔を見せに来るのじゃ。第一後継候補が全く顔を見せないのは、ちと物足りぬぞ」

「……それならば」

 看過できずに言葉が飛び出した。思わず上げた視線の先で、薄紫の瞳が強く閃く。紅い唇が緩く弧を描く。たったそれだけに、圧された。

「後継からは下ろさぬよ」

 再び名が呼ばれて、目が逸らせなくなる。どこまでも深い薄紫に囚われたように、動けない。

「我が手づから真名を与えたのじゃ。ぬしが、後継じゃ」

 目を逸らすことを許されないまま、泣きたくて泣きたくて、たまらなかった。こんな、不相応な称号(なまえ)など、ちっとも、これっぽっちも、欲しくなかった。すぐにでも捨て去ってしまいたかった。けれど、もうこの真名は、当代と自分、2人だけのものではない。

 ふ、と、圧が消えた。呼吸が楽になる。

「さて、話が逸れたがの。ぬし、そやつから『試練』の件は聞いておるか」

「……はい」

 安堵のあまり吐いたはずの息が重く転がる。従者からしばらく前に聞いた。どうせ自分は戦力外と思われているから、と放っておいたのだが、どうやら問屋が卸さなかったらしい。

「これから行くぞ」

「は?」

 ひどく間抜けな声が出た。よほど抜けた顔をしたのか、当代がぷ、と吹き出す。後ろを振り向くと、従者は慌てて小さく首を振った。彼も知らされていなかったらしい。

「待、って、ください、私は」

「すでに各地で我が眷属が『試練』を与え終えておる。流石に当代および後継の我とぬしが何もせぬというわけにもいかぬしな」

「ならば、当代、だけで」

「のう。我が知らぬと思うたか」

 す、と細められた瞳に、鼓動が1つ高鳴る。


「ぬし、人を襲うたであろう」


 は、と小さく息が漏れた。頭が真っ白になる。視界が揺れる。背筋が強ばる。乾ききった喉の奥で、辛うじて絞り出す。

「……そんな、こと」

「自覚がなからば教えよう。ぬしが懇意にしておるあの人間の、父親かのう? 建物から出てきたところに雪混じりの突風を浴びせかけたではないか」

「っ、あれ、は!」

「ついでに僅かながら命まで取ってきおった。気づかなんだか? あの後しばらく、ぬしが降らせる粉雪、強まっておったのじゃぞ」

 つきつけられた事実に横面を引っぱたかれて目眩がした。床に手をついたまま、腕がカクカクと震える。今更になって、自分の所行が目の前に立ちはだかった。人の命を食うことはもちろん、取ることでさえ怖くて怖くてたまらなかったのに、あの時、自分は何の恐怖も感じなかった。むしろ、感じていたのは、彼にあんな顔をさせたこの男を懲らしめてやろうという、制裁の情。

 コイツナラバスコシトッテモカマワナイ。

 カレヲクルシメタノダカラシカタガナイ。

 ……なんて、なんて自分勝手な情なのだろう。

 愕然と目を見開いたまま動けない彼女の隣で、そっと空気が動いた。視界の隅に濃藍の袴が入り込む。そっと背中に手が当てられ、ゆっくりとさすられた。自然と呼吸がそれに合い、乾いた口を湿らせる。強ばった首を動かして見上げると、静かな藍の眼差しが注がれていた。

「彗姫は、雪神として外道といえることは何一つなさっておりません。どうか、落ち着かれますよう」

 低い声音が背中からゆっくりと身体に染み通っていく。瞬きをすると、目尻から1つ涙がこぼれた。それを、長く冷ややかな指先が拭ってくれる。

「まぁ、そやつの言うとおりじゃ。それが、本来あるべき我らの姿。取ることができたのならば、食うこともたやすかろう。というわけで、これから行くぞ」

 薄紫を帯びた銀の髪がさらりと翻り、彩る金や水色の紐が踊る。純白の衣を手で引き身を翻した当代刹梛伎の後ろ姿をぼんやりと追いながら、彼女は従者に支えられるようについて行った。

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