O3-2
いくら今の距離が友人のそれに近いものだとしても、それが彼女にとっては大いなる進歩だとしても、かつての、まるで“恋人”のような関係にはほど遠い。それでも急くこともなく紳士的な距離感を保ち続けているのだから、同い年でも彼はずっと大人だ。それまで頑なに他人との距離を置き続けてきた今の自分にはちょうどいい。でも。
彼を見ると、彼といると、やるせなくなる。もどかしくなる。苦しくなる。覚えていない自分が彼にそんな顔をさせているのだと、責める声が聞こえてくるから。いっそ詰ってくれればいいのに、と思う。声高に、何故覚えていないのだと、強引にでも責め立ててくれればいいのに。そうやって静かに悲しむだけだから―世話を焼きたいと言われても、未だに彼女は子猫と2人だけの暮らしを手放せない。
「……この家に、住んでもらった方が、良いのかな」
いつものように家の前まで送ってもらい就寝の挨拶と共に別れ、ご飯と風呂を済ませた後、暖房器具を縁側に持ち込み並んで座りながら、抱えた膝に額をつけて彼女は問う。
「いつまでも、このままこうして、いられないよね」
「僕は嫌だ」
もう何度目かもわからない問いに、子猫は何度目かも知れない拒否を投げつける。
「ここは、みゅうと僕の家だ。2人だけの家だ。他の人間なんか、他の存在なんか、いらない」
子猫にとって恩猫に当たるあの老猫ですら、客猫なのだ。青年は子猫の中では客人ですらなく、むしろ1人と1匹だけの平穏な暮らしに割り込んできた侵入者と言ってもいい。だが子猫だって本当はわかっている。現実を頭の隅でとらえている。そんな駄々っ子のようなこと、いつまでも言っていられない。
しんとした縁側の、ガラスを挟んだ向こうで雪が降る。静かに静かに、時すら覆い隠すように降り積もる。
互いに同時に、言葉にした。
『雪が、解けたら』
やや黙って、再び彼女が続ける。
「雪が解けて、春になって、あの人と一緒に住んでも良いかな、と思ったら」
「雪が解けて、春になって、僕があいつのことを少しでも認められていたら」
一緒に住もう。そう決めた。それまでは、どうかこのままで。
雪解けの時期まで、あと2カ月を切っていた。
その決断を、彼女は次に彼に会った時に正直に告げた。どうか、春までは。
彼はしばし黙りこくって、やがて2度、頷いた。1度目は心なし渋るように、2度目は得心がいったように、ゆっくりはっきりと。
「待ってる。雪が解けて、春になって、みぃとまた一緒に暮らせるようになることを」
身体を縮こまらせて答えを待っていた彼女はそれを聞いて、ほう、と肩の力を抜いた。それを見た彼は悪い、と謝って、彼女の頭に手をやった。低めの熱が伝わってくる。ふとどこかで見たようなけしきが脳裏を過ぎって。
「……トーヤ、手、ちょっと冷たい」
思わずぽつりとこぼすと、慌てたように離れていった。
「あぁ、悪い。冬だから、冷えて」
焦ったのは彼女も同じ。
「あの、その、だめじゃ、なくて、冷たくても、平気だけど、思った、だけで」
ついにはどうしようもなくなって、2人して黙りこくった。やがて彼女の指先に、何かがちょんと当たった。かと思うと身構える間もなく両手を掬い上げるように持ち上げられる。
「みぃも、冷たいな。冷え性?」
「……」
「……みぃ?」
「あ、あの、うん、その、たぶん」
曖昧な返事の裏で、彼女は静かに困惑していた。
『あんた、手、冷たいな。やっぱり―だからか』
蓋の下、失われたはずの記憶の中から声が聞こえてきた。以前、温かな両手が同じように自分の両手を掬い上げて、冷たいと評したことがあった。『やっぱり』の次は何だったのか。記憶の声と目の前の青年の声はひどく似ていて、けれど記憶の方が少し掠れていた。今のは一体、いつのこと。青年に問うことが何故か無性に怖くて、彼女はそれをただ静かに、胸の中で持て余していた。




