M3-3
父親は予想よりもずいぶんと遅れて帰ってきた。
「混んでたかな」
飲み物を受け取りながらさりげなく尋ねると、いや、と首を振られる。
「担当の先生にあってな。退院予定日を聞いてきた」
「もう松葉杖に切り替わったし、そんなにかからないと思うけど」
「……あぁ」
言葉を濁す姿を見て、察する。
「別に退院までいなくて良いよ。父さんだって仕事があるし、荷物だってそんなに多くないし。今日だってめぐみさんに早く帰るよう言われているんだろ? 平気だよ」
それに、と心の中で吐き捨てる。
それに、本当はあんただって、この町に一秒でも長くいたくないだろう? だってここは、母さんが育ち、眠る町だ。
本当は面と向かって言ってやろうと思っていた。それが例の雪女のせいで気がそがれてしまった。全く、狂わされて、困る。
案の定「そうか」と呟いた父親の声音には隠し切れていない安堵の色があって、やはり少しだけ苛立ったからこれだけは言ってやった。
「帰る前に、母さんの墓参りくらいはしていきなよ」
「……俺が行ったって、追い払われるだけだろう」
ぼそりと応えると、父親はごまかすかのように立ち上がった。本当に帰るらしい。
「卒業式には出るから、そのくらいに1度戻る」
「あぁ」
コートと鞄を取り上げて、カーテンに手をやり、そこでふと、動きが止まった。
「先生が不思議なことを言っていた」
「? なに?」
「お前がここに収容された時のことだ。不意に正面玄関の自動ドアが開いて、警備が見に行ったらお前がバイクごと倒れていたらしい。到底一人で来られるような容態ではなかったのに、運んできたらしき人物はどこにも見えなかった、と」
「あぁ、その話、聞いたよ。俺はその時のこと、全く覚えてないからなぁ。不思議だよね」
うそぶきながら窓の外を見る。少し向こうに見える山々、ここからは見えないがその中腹に佇んでいる朱色の鳥居が鮮やかに脳裏に浮かぶ。本当に、なんという気まぐれだろう。
これ以上話を続けるつもりがないらしく、音を立ててカーテンを開けるその後ろ姿に、思いついて声をかけた。予想以上に待たせたので、念のため、だ。
「雪が降っているから、帰り、気をつけて」
「……あぁ」
その言葉の意味を知らない父親が、病院を出た瞬間粉雪混じりの突風に見舞われたのは、青年の与り知らないことである。
先ほどよりも心なしすっきりしたような顔で椅子に座る雪姫を前に、その理由はあえて問わずに青年は不自由ながら腕を組んだ。さて、どこから話したものか。
「神様がどうだか知らないが、人間の子どもってのは親に似るんだ。目元は母親似、耳の形は父親似、とかな。俺の場合、この顔は完全に母親似だ。あいつの面影が残るのは髪質と体格くらいだな、今のところ」
「今のところ?」
「成長すれば顔は変わるんだよ。子どもの時は母親似でも、年を取っていくうちに父親に似てくることもある。……俺はごめんだがな、あの男はそっちの方がまだ良いかもしれない」
「……?」
「母親がな、俺が6歳の時に交通事故で死んでるんだ。あいつは今もその事実から逃げてる」
そのことに気づいたのは、父親が仕事漬けでほとんど家に帰ってこなくなり、父方の祖父母に預けられていた頃。朝、顔を洗ってふと鏡を見たら、記憶よりもずっと幼い母がそこにいたのだ。途端に涙があふれて、その場でしゃがみこんで泣いた。泣き声を聞きつけた祖父母が駆けつけてきたが、うまく説明できなかったことを覚えている。
「そりゃ、俺の顔を見たくないはずだ。見たら、思い出すからな」
「……今も?」
「あぁ」
「……鏡、見るのいや?」
「俺か? 俺は、嫌でも見るからな。慣れた」
それから程なく父は再婚し、呼び戻されて一緒に暮らすようになった。そこでも、母親似が災いとなった。
「あいつのミニマムバージョンだったらまだ可愛げがあったんだろうがな、死んだ前の妻似ってのはどうにも、愛着持てないらしい。一応体裁ってのを気にしたのか外面だけは良かったけどな、不本意ながらお伽噺のヒロインの気持ちが少しわかった」
「……なに、それ」
「人間界にはお伽噺っつー架空の昔話がたくさんあってな。よくある設定に、義理の母親が義理の娘を虐げるってもんがあるんだよ」
「……どうして?」
「自分が腹を痛めて生んだ子どもじゃないからだろ。それが自分より綺麗だったらなおさらだ」
「……義理のお母さんより、綺麗だったの?」
「おい、俺は一応男だからな」
父方の祖父母はそういう時、手を出さない人だった。代わりに声をあげたのが、亡き母方の祖父母だ。娘の唯一の忘れ形見が無下にされているのを知り、いても立ってもいられなかったらしい。毎週末、青年は彼らに預けられ、育てられることになった。
「そこから色々あって、今ここにいるわけだ」
そうざっくりまとめたところで、彼女が目を瞬かせた。
「今は、その、お母さんの、おじいさんと、おばあさんのところ?」
あまりに不思議そうにしているので、努めてあっさりと教えてやった。
「もう二人とも極楽に行った。その家を借りて住むことになった矢先に、事故ったんだよ」




