O2-2
「それにしても、安心した。本当に危なげなくやってるから」
夜道を並んで歩きながら、彼は感慨深げにそう言った。バイトの日は、特に夕ご飯までごちそうになると、帰るのは日が暮れたあとになる。そのことを気にした青年は講義の日以外にも、用事がない限りこうしてわざわざ迎えに来てくれるようになった。恐縮して断ったけれど、帰宅ルートからはそんなに外れていないから、と押し切られた。
『俺が心配で心配で落ち着かないから、俺のためと思って付き合って』
こう言われてしまっては彼女にはとても太刀打ちできない。無論、足元には警戒心丸出しの子猫がくっついてきているので、いつ飛びかかるかと気も気でない。
『こんな紳士的な僕がそんな野蛮なことするわけないでしょ!』
と本猫は言っていたが、何かを発散するかのように雪を跳ね散らかしている姿を見るとそうそう安心もできない。
「そう、ですか」
「あぁ。少なくとも前じゃ想像もつかなかった」
しばらくはかなり戸惑い逃げ出したい衝動に駆られていた彼女も次第に落ち着いてきた。元来の消極的な性格に加え、この一年間ほとんど子猫とバイト先の老夫婦としか話すことのなかった彼女は当然ながら話下手なのだが、この青年はいかにも手慣れたように、優しく辛抱強くそれらを解し導いてくれた。彼女が逃げだそうとする本当にギリギリのところで引いてくれた。要するに、非常に優れた聞き手だったのである。しばらく経ってそのことに気がついた彼女に、彼は苦笑しながらこう答えた。
『ずっと一緒にいたから、慣れた』
まるでそんな彼にゆっくりと手を引かれて歩いてゆくかのように打ち解けていき、一カ月と少しかけてようやく、おそらく友人と呼んでも多分差し障りがないであろう、というぐらいの距離感になった。
「そんなに、意外ですか」
「そうだな……みぃは案外ものぐさだったから」
さらりと告げられたそれに、手に提げていた買い物袋ががっさり落ちた。慌てて拾うも、中身がぶちまけられなかったことを幸いに思う心の余裕が、残念ながら今の彼女にはない。
「も、ものぐさ……」
「そう。俺が何回か声をかけてやっと重い腰を上げる。動き始めたらスムーズだけれど、それまで結構渋る」
僕と一緒の時とちっとも変らないね、と足元で呟いた子猫の額を軽く叩いて、彼女は深々と項垂れた。そんな彼女の丸まった背中に手が当てられ、彼の穏やかな声が乗る。
「みぃの世話を焼くの、俺は結構楽しかった。時々甘やかすのも」
なだめるような掌で背中を撫でられる。ちらり、と目線だけをあげると、街灯にぼんやりと照らされた顔の左側が仄かな笑みを浮かべてこちらを見ていた。慈しまれているような、懐かしまれているような、落ち着かなくさせる顔。それなのに。
彼女を引きつけるのは、その影に隠れた右側の顔。同じ表情をしているのに、どうしてこんなにも、寂しげに悲しげに見えるのだろう。
「トーヤ、さん」
思わず小さな声で呼びかけた。背中を撫でていた手がピタリ、と止まり、そのまま静かに離れていく。落とした買い物袋を片手に、立ち上がりがてらもう片方の手で彼女を立たせると、彼は至極真面目な顔で言った。
「みぃ。提案がある」
「……?」
されるがままに一緒に立ち上がった彼女は当然ながら小首を傾げる。子猫がそっと後ろ足に力を入れた。それを知ってか知らずか、彼はひどく真剣にその"提案"を告げた。
「そろそろ、敬語をやめよう」
「……え」
子猫の後ろ足から、かくん、と力が抜けた。敬語。
「俺としては、前のように呼んで、話して欲しい」
「ま、前の……」
「そう。トーヤって呼んで、普通に話していた」
足元に視線が落ちる。子猫がじっとこちらを見つめている。思わず手を伸ばして抱き上げたくなった。
「みぃ。大丈夫だから」
その手を、正面に立つ青年の声が封じる。こちらを見つめる目はどこまでも優しくて、心の困惑にふわりと手を添えられているようで。
「……ま、まだ、待って、欲しい」
かすれた声で、絞り出した。
「私、まだ、何も、思い出せて、ない、から。前が、わからない、から。前のように、は、その、無理」
声が震えた。顔があげられない。『無理』という言葉一つを絞り出すのに、途方もない気力を使った。発してからその鋭さに怯えた。
「……そうか」
静かなその声に、肩が跳ねた。周りの空気が音もなくただ下がっていく。ぎゅ、と目をつむったその時。頭に、手が乗った。
「悪い。そうだな、前のように、は、まだ無茶な願いだった。俺が先走った」
ぱたぱたとなだめるように手が動く。一緒に身体のこわばりまで落としているようで、ほう、と吐息が漏れた。しばらくそうしてから、そっと手が離れていった。追いかけるように顔をあげると、口元に薄ら笑みを浮かべ眉を落とした彼が、先ほどと少しも変らぬ場所に立っていた。そのことに、何故か少しだけ安堵する。
「まぁでも」
「……え?」
あれ、と思った時には、先ほどよりも笑みを大きくした彼がひょい、と爆弾を投げて寄越した。
「それは別としても、敬語はやめても良いと思う。俺ら、同い年だろ。敬語でいる理由がない」
「……う」
「みぃの場合、別に敬語キャラってわけじゃないわけだし」
「キ、キャラ……?」
「ほら、案ずるより産むがやすしっていうだろ。試しに呼んでみれば意外と馴染むかもしれない」
「で、でも」
「呼ぶことで何か思い出すかもしれない」
「え、その」
明らかに、どう見ても、楽しまれている。そのままじぃっと待ちの姿勢に入った彼に、内心で頭を抱えたくなった。足元の子猫に目をやる。ぎょっとするなり視線を外して毛づくろいを始めた。あぁ、これはもう思考放棄している。右を見て左を見て、後ろ……は何となく怖くて見るのをやめた。脳内で二往復ほど転げまわって、どうしようもないことを悟る。
「……え、と」
「うん」
そうだ、彼は同級生で、多分おそらく友人なのだ。世間一般では、少なくとも大学ではしゃいでいる彼らは、同級生や友人には敬語など使っていないではないか。真似をすればいいだけの話だ。難しいことではない。多分。
「……その」
「うん」
「……と」
「と?」
「……トー、ヤ、……」
「うん。そんな感じ」
よく言えました、と、満足げに頷く彼の前で、へなへなと崩れ落ちそうになった。気力が底をついた。今日はよく眠れそうだ。
その夜、夢を見た。大学近くの大通り、少し先を歩く青年の後姿。どうやらまだこちらには気づいていなそうだ。ひょっとするとこっそり追いかけたら驚かすことができるかもしれない。そう思って後を追いかけるけれど、普段の彼は歩みが速いようで、どうしても駆け足になってしまう。それなのに、いくら足を速めても、どうしても、追いつけない。焦って焦って、ついに叫んだ。
「……っトーヤ!!」
ピタリ、と彼の足が止まる。ゆっくりと振り返ったその口元に、緩やかに笑みが浮かぶ。あぁ、良かった。これで、
そこで、プツン、と、ブレーカーが落ちたように真っ暗になった。




