Oblivion2 知拒―ホドカレルサカイメ―
子猫が窓の外で餌待ちをするリスよろしく右へ左へ動いている。目の前には湯気をくゆらせる紅茶。向かいのカチャ、という音に肩が震えた。ふ、と軽く息を吐いたのまで耳が拾ってしまい、呆れられているのではないか、と、首がすくむ。
「そんなに緊張しなくていいから」
柔らかな声が自分の肩に降りてきて、少しだけ目線をあげてみる。目を細めて見つめてくる彼は、トーヤと名乗った青年は、幸い呆れているようではなかった。おそらくこれは、苦笑している。
講義終わり、大学から徒歩5分ほどにある喫茶店で、彼と彼女は向かい合っていた。子猫を伴い校門を出たところで青年に声をかけられ、このあとの予定のないことを知られるなりあれよあれよと連れてこられてしまった。子猫すら首を挟む余地のなかったその手際の良さに、いっそ賞賛を送りたい。
「やっぱり、どうしても話がしたいと思ったんだ。これまでみぃがどうしていたのか、知りたかった」
「……そんな、話すようなことは、何も」
ただただ子猫と過ごすだけの日々だった。学校行事にも出ずサークルにも入らない、静かで平淡な、特別なことなど何もない日々。
「……たまに、アルバイト、するくらいで」
おまけでぽそり、と呟いた言葉に、向かいの彼の目が丸くなった。
「みぃがバイト? どこで?」
「……近所の、古書店」
へぇ……と背もたれに身体を預けた彼は、心底驚いているようだった。彼女としてはそれがあまりに意外で、つい首を傾げる。
「俺が実家に帰ったあとに始めたんだろう。そうか、バイト……へぇぇ……」
しみじみと呟く彼はひどく感慨深げで、記憶を失う前の自分がどんなだったのか、嫌でも気になった。もちろん、聞けるわけがないのだけれど。
「古書店って、あそこだろう? 老夫婦が営んでいる」
「は、はい」
「優しい?」
「……はい」
記憶を失った彼女がわずかに残っていた記憶を頼りに訪れた時、事情を知った老夫婦は少しだけ涙ぐんで、それでもしっかりと彼女の手を握ってくれた。こんな状態だからアルバイトを休ませて欲しい、と伝えると、それでもかまわないからおいで、と言ってくれた。根掘り葉掘り詮索してこないことが本当にありがたくて、たまに食べさせてくれる夕ご飯はとても美味しかった。
「……お土産、くれるし」
「お土産?」
ついぽろり、とこぼした言葉を拾われて、訳もなくためらう。でも、机の向こうはしっかり待ちの体勢で、やむなく続けた。
「行くと、いつも、いろんな場所のお菓子を、くれます」
「あぁ、この前の鳩型のサブレもそう?」
「はい。おまんじゅうや、スフレなども」
言いながら、何となく、後ろめたさを感じるのはなぜだろう。そっとカップを取って口を湿らせる。青年がふ、と笑うのが聞こえた。
「みぃは、前からおまんじゅう好きだな」
「……そう、ですか」
「そう。よく人からもらっては喜んで食べてたっけ」
「……そ、そうですか……」
「そういう意味では、そのご夫婦は間違いなくみぃのツボを押さえているよ」
そう言ってクツクツと笑う青年は本当に楽しそうで、それなのに彼女は何となくいたたまれない。今度からお土産は断ろうか。しかし、以前断ったらそれは悲しそうな顔をされてしまったので、素直に好意に甘えるのが彼らにとっても良いのではないかとも思う。断じて、自分がせがんでもらっているのではないのだ。
「良かったよ。良いバイト先に恵まれて」
楽しそうな笑みそのままを向けられて、彼女はつられるようにぎこちなく頷いた。
「それじゃ」
「その、ありがとう、ございました」
家の前まで送ってくれた彼にぺこり、と頭を下げると、頭の上に沈黙が降りた。そっと目を上げてみると、夕日の残光を受けた彼の、細められた瞳と合う。その奥の揺らぎに、戸惑う。
「……トーヤ、さん?」
「……また、誘わせて。一緒に帰るだけでも、良いから」
吐息を押し出すような、懇願にも近いその言葉を、振り払うことはできなくて。
「……はい」
蚊の鳴くような声で、応えた。途端に彼の空気がゆるり、と緩んで、そのことに動揺した。自分はただ一言、応えただけなのに。ポスン、と頭の上に大きなものが乗った。少しだけ低めの体温。彼の手がそのまま少し動いて、ゆっくりと離れていく。
「それじゃ、また」
先程と同じ言葉に短い約束を足して、ゆっくりと彼は去って行った。
「……朔鬼」
「……なぁに」
ひょい、と肩に飛び乗ってきた子猫を腕に抱き直して、後ろ姿を見送りながら、呟く。
「あの人は、怖い人、だね」
「怖い人?」
「うん。一緒にいると、落ち着かない。自分が、揺さぶられる気がする」
子猫の丸い瞳が、くる、と動く。
「嫌なら、もう会わない方が良いんじゃない? 僕は大歓迎だよ」
嫌、という音を反芻して、ゆっくりと首を傾げた。
「これは、嫌悪では、ないんだと思う。ただ、怖いだけ」
「みゅう」
鋭い声に、腕の中で細められた瞳に、引き留められた。
「怖いもの見たさは、やめた方が良いと思うよ」
「……そう、だね」
それでも、あのトーヤという青年の引力の強さを彼女は、子猫も、すでに感じていた。それはもう、子猫の忠告などいとも簡単に振り払われてしまいそうなほどに。
案の定、ほどなくして、週に何度かは彼と一緒に帰ることが定着してしまった。




