M2-3
それを皮切りに、青年の『講義』が始まった。
「……何のにおい?」
「あぁ、風呂入れてもらったからな」
「風呂?」
「湯を浴びて、石けんつけて、身体の垢を落としてきれいにする。神様はそういうの、ないのか」
「きれいに……山の奥のわき水に、頭までつかる?」
「……寒そうだな」
「人間もたまにする。滝に入る」
「あれは坊さんがする修行の1つだ、風呂じゃない。普通はこう、このくらいの容器に熱い湯を張ってつかるもんだ」
「へぇ……気持ちが良い?」
「最高だ」
「入れる?」
「人の話聞いてたか? 熱い湯だ。あんた溶けるぞ」
「………………そのにおいは?」
「石けん。身体をきれいにするときに使う道具だ」
帰って従者に尋ねたら、石けんは清浄な神には必要のないものだということがわかった。少し残念な気がした雪姫であった。
「さっきの、何?」
「さっきの?」
「足、曲げたり伸ばしたり」
「あー、リハビリの一種、てとこだ」
「りは……?」
「人間てのは、動かさないと筋肉が衰えて、動かなくなるもんだ。だから、こうやって寝てなくちゃいけないときにでも、なるべく身体を動かして、固まった筋肉をほぐしておかなくちゃいけない」
「……動かなくなったら?」
「……いずれ死ぬ」
「!」
「動物は何でもそうだろ。倒れて動かなくなったら、終わりだ」
「……」
「そうならないように、なるべく早く動けるようにすんのがリハビリ。俺ももう普通に歩いて良いらしいからな。使っていかないと」
その日の帰り、山中で動かなくなった小鼠を見つけた。小さい前肢をつまんで動かしてみる。固くて動かなかった。怪訝に思った従者が迎えに来るまで、雪姫はずっとそれをつまんでいた。
そうして通うこと数日、とうとう青年が音をあげた。
「不便だ」
実際、彼女も同感だった。病院は人が多い。カーテンの仕切りはあるが巡回に来る看護師もいれば、診察に来る医師もいる。しかも忘れがちだが、彼が収容されているのは一般病棟で、同室には他にも2人いる。彼曰く片方は耳が遠いお年寄りで、もう1人はずっと「イヤホン」で何かを聴いたり食堂や談話室に出かけたりしているそうだから、大声を出さなければ問題はない、らしいが、いざというときもある。この間は話をしている最中に足音が近づいてきて、不意にシャ、とカーテンが引かれた。現れたのは彼の見知らぬ中年女性で、「あら、間違えた、ごめんなさいね」と一言告げるなりカーテンを引いていった。咄嗟に雪風となって窓のわずかな隙間から飛び出したが、あれは本当に心臓に悪かった。巡回や診察にかち合った時は話の途中でも抜け出さなければならない。不便きわまりない。ちなみに彼女がいる間はやはり室内の気温が下がるらしく、窓を開け放していないかと度々苦情を言われている。青年はその度ににこやかに頭を下げているのだが、それは彼女の知るところではない。
「こうなったらいっそさっさと治して家に帰るしかないな」
どこか諦めたような口調の彼に、彼女は目を丸くする。これまで「帰る」という選択肢を彼から聞いたことなど、1度もなかったのに。しかし、どうして「こうなったら」「帰る」という選択肢が生まれたのだろう。だって、帰るということは。
「おうちの人、いるのに」
看護師や医者が、家族に置き換わるだけではないか。ところが、その言葉は沈黙の中、長いこと宙に漂った。やがて彼女の気持ちと同じように、しおしおとベッドの縁に落ちてまごつく。そのうちようやく、仕方なく、という具合に平淡な声音がその上に乗せられた。
「……いない」
「……え」
「俺が帰る家には、誰もいない。だから、周りを気にせず会うにはちょうど良い」
それはいったい、どういう意味。問おうにも布団をかぶってしまった彼は、まるでこの話題を出してしまったことを悔やんでいるかのようで、声をかけるのが躊躇われた。
最初はあれだけ顔をしかめていたのに、聞けば何でも教えてくれる。しかも意外にもわかりやすい。そんな青年が、こと自分の家のこととなると口を噤む。そんな様子を見る度に、彼女の脳裏にあの日の彼の姿が浮かぶ。ほとんど生気の失われた顔。閉じた目の端からこぼれ落ちる涙。その涙から始まった関係なのに、未だその涙の意味には触れられていない。触れることを、拒まれている。




