O1-5
ため息が湯気を揺らす。揺れた湯気でため息をついたことに気づき、彼女は再び長く息を吐いた。今日は一体何という日なのだろう。トーヤと名乗る男は、彼女が記憶を失う少し前まで、一緒にここに住んでいたという。信じられない。ましてや自分のこの性格だ。考えられない。何よりその頃自分は高校三年生ではないか。彼の言葉を信じるならば彼だって同い年だ。高三の男女が一つ屋根の下なんて、ありえない。この家は彼の祖父母の家だと言っていた。では自分の生家は。自分の家族は。わからない。思い出せない。
『ありがと』
声が脳裏をよぎって落ち着かせてくれない。
『俺は、嬉しい』
頭が真っ白になった。どうして、そんな優しい声で、優しい眼差しで、優しい手で、そんなことを言うの。
「……充分だったのに」
ずっとこのままの生活で、ひっそり静かに暮らしていければ充分だったのに。記憶なんてなくても一年近く子猫と二人だけで楽しくやってきた。それで良かったのに。記憶を求める心が疼く。記憶の蓋はどこにあったかと、自分が自分の中を探し始める。怖いから強く目を瞑って、後ろ手で探り始める。止めたかった。抑えたかった。忘れたかった。でも、気づけば考えている自分がいる。彼は自分にとって何だったのか。自分とは、何なのか。
「……鳩型クッキーあげちゃったの、朔鬼怒ってるかな」
本来ならこの家を家主に返して自分たちが出ていくのが道理なのだが、彼はそれを断った。曰く、自分には当てがあるが彼女たちにはないだろう、と。せめてものお詫びにとバイト先で貰ったお菓子をあげてしまった。ご厚意に甘えてこうして今晩も風呂で温まることができるが、ならばいつまで自分たちはここにいられるのだろう。いつか、彼を迎え入れるべきなのだろうか。二人と一匹で住む日がやってくるのだろうか。……想像できない。自分のことは言うまでもなく、子猫と彼が一緒にいる姿など全然浮かばない。
そこまで考えて、先ほどの子猫の様子が彼女の脳内に蘇る。あれだけ子猫が激しく威嚇したのを見たことがなかった。途中まではおとなしく抱かれていたのに、よほど気に食わなかったらしい。彼が帰った後、自分は断固反対だ、胡散臭い、塩を持ってこいとしばらく騒いでいた。けれど彼女は、そこまで憎むべき悪党だとはどうしても思えない。泣きそうな笑みもきちんと意思を尊重してくれる距離感も、心臓を揺るがして仕方がない。そんな様子を感じた子猫は憤懣やるかたない、といった様子で縁側に出て行った。窓を少し開けておいてあげたから、もしかしたら彼を連れてきた老猫と話し込んでいるのかもしれない。
長く息をついて、鼻の下までお湯につかる。目を閉じると、またあの声が聞こえてくる。月明かりに照らされた、優しい眼差しが蘇る。ギリギリ目にかかりそうなほどのサラリとした前髪。首をすっかり隠すほど伸びた襟足。髪の間から見える形の良い耳。自分より頭一つ分以上高い、彼は一体誰。
夢を見た。誰かが頭を撫でてくれる夢だった。すり寄った自分は、まるでいつもすり寄ってくる子猫みたいだった。
「待ってて」
その人はそう言った。
「待ってる」
そう答える自分がいた。
こぼれた涙を温かな掌で拭ってくれたその人は、一度自分をしっかり抱きしめて、それからす、と消えてしまった。瞬間暗転。再び照明がつくことは、ない。




