上京して2年になるけど、僕は未だにお隣の『畑瀬さん』を見たことがないんだが。
パソコンのウイルスとか、よくわかってないのに書きたくて書きました。普通が取り柄の大学生(男)が主人公です。
僕はお隣さんを見た事がない。
去年、上京してきてから一度もない。
住んでないんじゃないかって?
いや、住んでるのは確かなんだよ。
ドアを乱暴に開ける音や、階段を駆け上がる音はするんだ。それに、表札もちゃんとある。
名前?『畑瀬さん』っていうんだよ。
だけどさ、音がしたから挨拶しようと思ってドアを開けると、既にいないわけ。もう、お隣のドアは閉まっててさ。
どんな奴かもわからないのかって?
いや、多分だけど女の人だと思う。
階段を上がる音とか、廊下を歩く音とか、ズシンとしてないっていうか、軽やかだからさ。
夢の見過ぎ?童貞かよ?
ほっとけ!!どうせ僕は田舎から来た、普通が取り柄のチェリーボーイだよ!!
***
「さいっあくだー……」
ーー深夜2時。
部屋の前に座り込んで、僕、真城 優一郎は頭を抱えていた。
「どこで失くしたんだ…」
いくら、鞄やポケットを探しても見当たらない家の鍵に、溜息が出る。
誰か親切な人が、拾って届けてくれていたら良いのだが、僕は知っている。
ここ、東京はそんなに甘くないってことを。
ーー上京して二年。
困った事があっても、助けてくれる人なんてそうそういないし、大学やサークルの友人達も、みんな自分の事で忙しい。
かくいう僕も、友人が「鍵を失くした」と言ってきても「取り替えろ」くらいしか言わないだろう。
きっと僕の鍵も今頃、たくさんの人に蹴り飛ばされて、どこかの下水道にでも行き着いてるさ。
「あーー、誰か泊めてくんないかな…」
近場で泊めてくれそうな友人を数人リストアップして、ポケットからケータイを取り出す。が、赤く点滅する充電マークに溜息をついた。
「……仕方ない」
僕は覚悟を決めると、鞄からノートパソコンを取り出した。
幸い、今は11月の頭だ。そんなに寒くないし、今日は飲み会で遅くなることを見越して、ボア付きのコートを着ているため、そんなに寒くはない。
「溜めてたレポートやるか!」
朝になったら、一階の大家さんに事情を話して、ドアを開けてもらえば良い。
鍵を取り替えるのは、財布的にかなり辛いが、致し方ない。飲み会を断れば、それなりにお金はあるはずだ。
僕は座り直すと、意気揚々とパソコンを立ち上げた。
「……あれ?何だこれ?」
メールボックスに入っている、見たことのないアドレスに、僕は首を捻った。
大学からか?と一瞬頭をよぎるが、大学からのお知らせメールは、ケータイに送られるようにしてある。
パソコンのアドレスは基本的に使っていないし、何だ?これ。
「………取り敢えず見てみるか」
カーソルを合わせ、未読メールをクリックする。すると、突然画面が真っ暗になった。
そのまま、何かの数式のようなものが、一気に打たれ始めた。
「は!?何だこれ!?」
クリックしただけなのに、画面には数字がとてつもない速さで、どんどん羅列されていく。
エンターキーを押しても、どこを押しても、その羅列は止まらない。
それどころか、電源ボタンを押しても電源は切れない。
「まさか壊れた!?」
ただでさえ、鍵の取り替えで出費する覚悟をしたところなのに、パソコンまで取り替えるとなると、相当な痛手だ。
「勘弁してくれよ〜〜〜!!」
涙目になりながらカチャカチャとキーを押していると、再び画面が真っ暗になった。
そして、真っ暗な画面の真ん中にポツンと『決定』ボタンが現れた。
「お、押せってことか……?」
恐る恐るカーソルを合わせる。
そのまま、クリックしようとした。
その時ーーー。
「それ、押さない方が良いよ」
「へ!?」
いつから居たのか。驚いて振り向いた僕の横に、女の人がしゃがみ込んでいた。パッと見た感じでは、そう歳は変わらないだろう。茶色の髪と派手な顔立ちが、いかにも今時のパリピだと主張している。
女の人はニッコリと笑うと、パソコンを指差した。
「それ、新型のウイルスだよ」
「え、ウイルス!?」
「そう。ウイルスバスターとか、そういう類のバリアをすり抜けちゃうんだわ、ソレ」
楽しそうにケラケラと笑って言う女の人。そしてそれとは対照的に、青ざめる僕。
大事な個人情報は、正直無い。住所も実家のままだから、とんでもないド田舎だし、カードやら小難しいものは一つもない。乗っ取られても、誰かのアドレスなんて一つも入っていないし、壊されて困るファイルもない。
…ただ、ひとつだけ流出されたら困るものがある。
ーーエロ画像だ。
チェリーボーイにとって、これは由々しき大問題だ。ケータイに保存すると、友人に見られる可能性がある、と思って上京した際に手に入れたパソコンに、全て保存しているのだ。
それが流出してみろ。
きっと大学の友人達は、僕を変態として見るだろうし、当然、住所特定もされてしまう。
変態、と書かれた紙をドア一面に貼られたりするのだ。
エロ画像なんて、年頃の男の子なら誰だって持ってるって?
もちろんそうだろう。だけど、それを仲間内ではない誰かに見せたり、そういった目的ではないサイトなどに載せた時点で、僕はエロ画像を掲示した変態となるのだ。
どうすればいいんだ…、と頭を抱えていると、隣からヒョッコリ女の人が顔を覗き込んできた。
「悲痛な顔だね、少年」
「えぇ、まぁ……」
溜息をつく僕に、女の人はニッコリと微笑むと、とんがったキラキラの指でパソコンの画面を弾いた。
「ね、このウイルス、あたしにくれない?」
「へ?」
「珍しいんだよね、このウイルス。中々見つからなくて、探してたの」
ウイルスを探していた、と言う女の人は、僕が黙っているのを肯定と受け取ったのか、パソコンを抱えて立ち上がった。
そのまま、僕の部屋の隣。『畑瀬さん』のドアを開けて、入っていった。
まさか、彼女が謎の隣人である『畑瀬さん』だったとは。
思わぬ出会いに呆然と立ち尽くす。
「ほら、何してんの。少年もおいで。どうせ鍵失くして入れないんでしょ?」
ドアから顔を覗かせた畑瀬さんに手招きされて、僕は初めて、女性の部屋へと足を踏み入れた。
***
「う、わ……!何だこれ……!!」
部屋に入ると、そこは窓一つなかった。あるのは無数の青く光るパソコンと、所狭しと配線されたコード、そしてそれらの中心にポツンと置かれた卵型の椅子。
慣れた足取りでコードを避けながら、畑瀬さんはパソコンの画面の中心にある、卵型の椅子に腰掛けた。
「適当に座ってて」
そう言うと鼻歌を歌いながら、慣れた手つきでキーボードを叩き始めた。畑瀬さんの座る椅子を囲うように並べられた、無数のパソコンとキーボード。
想像していた『女の子の部屋』からは程遠いそれに驚いて、僕は呆然と立ち尽くしていた。
「は、畑瀬さんって、何者なんですか…」
「あたし?あたしはハッカー」
日常生活では聞きなれない言葉に、首を捻ると、畑瀬さんはパソコンの画面から目を離して、手を止めた。
「他国の情報を覗いたり、今回みたいな新型ウイルスの対策をしたりするのが、あたしの仕事」
ニヤリ、と唇の端を釣り上げて、再び画面に目を戻す畑瀬さんに、僕の背中は11月だというのに、じっとりと汗をかいていた。
ずっと、どんな人なのか分からなかった隣人が、まさかの国のお抱えハッカーだったとは。
驚きと高揚で高鳴る心臓を落ち着かせようと、深呼吸をして、部屋の隅に置かれていた木の椅子を持ってきて、畑瀬さんの隣に座った。
「いやー、でも助かったよ。少年がこのウイルスにかかってくれて。探してたんだー」
「いや、何も良くないです。僕の財布が危機です」
なんじゃそら!と笑いながらも、畑瀬さんの手は止まらない。
この部屋に来て、どれくらい経ったのか。多分20分やそこらだ。
畑瀬さんはようやく手を止めると、僕のパソコンと自分のパソコンをコードで繋いだ。
「んじゃ、いっきまーーーす」
僕のパソコン画面に表示されている、決定ボタン。それにカーソルを合わせる。
ーーーーーカチッ。
「う、わわわわ!?」
畑瀬さんの大小様々なパソコンの画面が同時に真っ暗になり、そしていきなり謎の文字が羅列され始めた。
「だ、大丈夫なんですか!?これ!!ウイルス感染してますよね!?」
「してるねぇ」
ガサガサ、と机の上に無造作に置かれているビニール袋から、スルメを取り出して食べ始める畑瀬さん。
おっさんかよ!!!とツッコミたいが、今はそれどころじゃない。
「ちょちょちょ、どうするんですか!?」
「まあまあ、見ときなって。あたしも、こんな複雑なウイルス、久しぶりなんだ」
楽しもうぜ?なんて、スルメ片手に笑う畑瀬さんに、頭を抱える。
本当にこの人、国のお抱えハッカーなのか?
画面の羅列が終わり、再び画面が暗くなる。
そして、決定ボタンが現れた。
「いいか、少年。この決定ボタンを押せば、ウイルスは完全にパソコンを乗っ取るわけだ」
「え、じゃあ僕のパソコン、もう乗っ取られてるんですか!?畑瀬さん、さっき押しましたよね!?」
「あぁ、少年のヤツはもう乗っ取られてるよ」
ケロッと言い放たれた言葉に、項垂れる。
僕のエロ画像が、世の中に露見されてしまう。エロ画像を流出させた性犯罪者として、僕はこれから生きていくんだ……。
そう覚悟して、僕は立ち上がった。
「どうしたの?」
「…性犯罪者として、先に自首してきます」
「ブハッ!!何言ってんの!?ウケるんだけど!」
「だ、だって!僕のパソコン乗っ取られたんですよね!?」
じゃあ、もうどうする事も出来ないじゃないですか!と涙目の僕。
畑瀬さんはひとしきり笑うと、急に真剣な顔つきになった。
「大人しく見とけって」
決定ボタンにカーソルが合わせられ、押された。
すると、画面が元通りになった。元の畑瀬さんのホーム画面なのだ。
ーーーただ、勝手に動いている。
触れてもいないのにカーソルが動き、フォルダをクリックして、どんどん開いていく。
「は、畑瀬さん…っ!」
どんどん開かれていくフォルダに、勝手に打ち込まれていくキーボード。
完全に乗っ取られた、とわかる動きに、隣に座ったままスルメを食べる畑瀬さんの肩を掴んで揺らす。
「あっはっは!落ち着け、少年」
僕の手を払い除けて、畑瀬さんは立ち上がると、何処からかもう一台、ノートパソコンを持ってきた。
明らかに旧式のそれを立ち上げると、畑瀬さんはUSBを差し込んだ。
「…そんじゃ、始めるか」
首の骨を鳴らして、畑瀬さんはキーボードに手を滑らせた。
ダダダダダダダダダッ!!!!
「うへぇ!?!?」
先程とは比べものにならない速さで、キーボードを打ち始めた畑瀬さん。
は、速すぎんだろ…!!!何打ってんだ!?
目で追えないほど速く羅列されていき、画面がどんどん動いていく。
真剣な顔で、画面から目を離さない畑瀬さんの横で、気持ち悪い汗をかきながら、僕は目の前の女の人を信じられない目で見ていた。
どのくらい経ったのか。
ほんの数分だろう。
畑瀬さんはようやく手を止めると、う〜〜ん、と背伸びをして顔を上げた。
「あ〜〜〜、つっかれた〜〜〜」
欠伸をしながらUSBを抜き取ると、畑瀬さんは尚もフォルダを開き続けるパソコンの一つに、USBを差し込んだ。
「さあ、反撃しようか」
ーーーカチッ。
畑瀬さんがエンターキーを押す。
たった、それだけだった。
馬鹿みたいにフォルダを開いていた画面が止まり、ガザガザと砂嵐になる。
そしてーーー
「巻き戻し、スタート」
畑瀬さんが、まるで世界を破滅する程の威力を持った爆弾のスイッチを与えられ、全世界の命運を握った悪戯小僧みたいな顔で、デリートキーを押した。
***
ノートパソコンを抱えて、部屋のドアノブを回した僕は、鍵を失くしていたことを思い出して溜息をついた。
どのくらい、ウイルスと戦っていたのか。空は既に明るくなり、朝日が昇っていた。
「腹、減ったな…」
ポケットにつっこまれた財布を開くと、三千円ちょっと入っている。
アパートの階段を降りて、僕はコンビニに向かった。
弁当を二つ、サラダを二つ。ついでにデザートを二つ買って、またアパートへ戻る。
「畑瀬さーん、飯、食いませんかー?」
ドアを叩いて、呼びかける。
ついさっき、ほんの数時間も経たないほど前に知り合った女の人。
自分の事をハッカーだと言い、僕のパソコンに感染したウイルスを消してくれた人。
ドアが開いて、茶髪と派手な顔立ちが覗く。
「お、買ってきてくれたの?」
「スルメだけじゃ、身体に悪いと思って」
袋を受け取ると、畑瀬さんはニッと笑った。
「次は、あったかい手料理で頼むよ!少年!」
その言葉に、僕は大きく頷いた。
僕の隣人は『畑瀬さん』
上京して二年。
ようやく、会うことができました。
は〜〜〜〜よっとこどっこいしょ〜〜〜〜〜