第一章 秘湯温泉宿にて・第六話
「………………んぁ?」
日比谷が目を覚ますと、そこは元の大広間だった。料理はなく、酒もなく、魔女もいない。常識的な光景と自分の身が無事なことに安堵の息を吐いたが、ふと顔を上げると、前庭に通じるガラス窓の前に曽根崎、諏訪、野口が立っていた。
三者一様に驚愕が顔に表れていた。
「あ、あの!……何かあったんすか?」
「……あぁ、日比谷、無事か。……良かった」
普段ならあり得ない、毅然とした課長の呆けた返事に日比谷は異常を感じた。
「……外に、何かあるんすか?」
日比谷も窓に近づいた。明るいと思っていたが夜が明けていたようだ。よく聞けば鳥のさえずりも聞こえてきた。
チチチ、チチチ……、チュンチュン……、コケコッコー……、ギギギ、バキバキ……、ッズーン……
「……何だ、今の音?」
外に広がる光景。宿の前庭の先は、木々の生い茂る山。鳥が飛び立ち、木の枝が揺れている。いや、揺れているのは鳥のせいではない。木が揺れていた。遠くに見える木々の一本が、唐突に高く伸びあがった。そして、ゆっくりと大きく、動き回っていた。
「……木が、歩いてる?」
「足とか、腕とか、生えてるように見えねぇか……?」
諏訪もまた呆然と、目の前の光景を見たまま話しかけた。
「……トレント?」
曽根崎の呟きに諏訪、日比谷、野口が顔を向けた。
「あぁ、いや、……トレントとは長い時間生きた大樹に生命と知性が生まれた存在で、木の巨人というか、……つまり、空想上の怪物のことだ」
「何すか、そのファンタジーな話?」
「ファンタジーの話なんだよ。フィクションの存在だ。……だから、目の前の光景が信じられない」
「……つまり、ここが魔女の世界、ということです、ね」
野口の言葉に、3人の表情がこわばった。忘れていたわけでも夢だと思っていたわけでもないが、現実として考えるにはあまりに現実味の無い話だ。
異世界転生。
違う世界へ飛び世界を救う。
「……とにかく、状況を確認しよう。日比谷、部長と柊木を起こしてきてくれ」
「………………あ、はい、了解っす」
目覚めた安西と柊木も外の光景に驚き、一行は大広間にて緊急会議を開いた。
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「それじゃあ、まずは現在の状況を確認しようか」
安西の号令に一同がそれぞれに報告した。
「俺らの荷物は部屋に残ってました。とりあえず、無くなってる物とかは無さそうっす」
「えと、携帯がつながりません。圏外です。宿の電話も、呼び出し音さえしませんでした……」
「……そもそも、電気が、通じていません。水道も、駄目、でした。……それと、宿の敷地の外は、間違いなく違う世界、です。目に見える範囲、ですが、野生動物以外の何かが大量に、『視え』ました……」
「厨房の食材は全部無事。新鮮なもんでしたよ。移動するんなら、『お土産』として持ってっちゃぁどうですか?」
「私たちの乗ってきたバンは敷地内の駐車場にありました。エンジンもかかります。燃料の残量は半分ほどです」
5人の報告を聞き思案する安西。だが、採るべき選択肢は限られる。
「まずは、ここに残るか移動するかなんだけど、聞いてる限り残るメリットは無いかな?」
「外の世界が予測できない以上、安全地帯を守るというのも対応策として正しいとは思いますが、ライフラインが整っていない場所ではあまり長居できないでしょうね」
曽根崎の意見に安西が頷く。他の4人も、異論はないようだ。
「じゃあ、まずはここから移動しようか。諏訪君が言った『お土産』は保存食と水を最優先ね。それで目的地だけど、とりあえず人がいる所を目指そう」
「人がいる所って、どうやって探すんすか?」
「そりゃお前、道を辿っていきゃいいのよ。誰かが通った道なら、土が踏み固められてたり草が除けてあったりするんだよ」
「心配なのは車が通れる道があるかどうかだな。異世界モノのセオリーとして、現代よりも古い時代というのはありふれた話だ。車など無い世界かもしれん」
「なんか皆さん詳しいっすね……」
「もし車で進めなくなったら、食料優先で手に持てる量の荷物を持って歩き、ということでいいかな?」
全員から賛成の返答が出たことで会議は終了。そして一同は異世界への最初の一歩を踏み出した。
「よーし行こうか!新天地での仕事なんだから、楽しんでいこう!」
安西の言葉と同時に6人を乗せたバンは走り出した。
一路、麓へ。目的地は、人里。
お読みいただき、誠にありがとうございます。
ここで第一章は完結です。
第二章の投稿は一週間ほど時間をいただくと思いますので、しばらくお待ちください。