第一章 秘湯温泉宿にて・第三話
大広間は100畳もの広さの豪華な造りだった。上座方向には舞台があり、舞台奥に壁一面を埋め尽くす巨大な絵が掲げられていた。
絵はどこか見知らぬ土地の風景をモチーフにしているようだ。遠くに山脈のある草原で、大きな樹が一本、その樹から飛び立つ一羽の白い鳥、その鳥を見送るようにこちらに背を向ける一人の少女。何か意味がありそうだし無いかもしれない、どうとでも読み取れそうな絵だ。
「お、もう並べられてるじゃないっすか!うまそ~!」
大広間の舞台に近い位置に並べられた6つのお膳、その上には刺身や山菜の天ぷら、火にかけられた蓋つきの小鍋、湯気を立てる白米が据えられていた。見れば、広間の隅に瓶ビールの詰まった小型の冷蔵庫もあった。
しかし、誰もいない。
「準備もできてるみたいだし、とりあえず座りましょうか」
出来立ての、見るからに美味そうな料理を前に、日比谷を始め他の面々も席に着こうとした。
しかし、誰もいない。
「………………ちょっと待った!」
一人、広間の入り口にいた野口が声を張り上げた。その顔は酷く青ざめて怯えているように見える。
「野口さん?」
「みんな、……それ以上、その料理に近づかない方が、いい……」
「何だぁ?毒でも盛られてるってか?」
「……分かりません。……でも、それは、ここは、違う。……何か、おかしい」
「どうした野口。落ち着いて、分かりやすく話してくれ」
野口は震える腕で自分の体を抱きながら、この宿の『違和感』を語った。
「……ロビーに入った時から、ずっと、気になってた。……ここには、誰もいない。……客も、従業員も、虫一匹ですら。……俺たち以外、誰も、何も、……いない」
「……確かに静かでしたけど、どうして誰もいない、なんて……」
「それは、……上手く、説明できない、が……」
野口は束の間言いよどんだが、再び5人に語り掛けた。
「だが、誰もいないのは、本当だ。……じゃあ、あの女将は、何だ?……こんな所で、一人で、……いったい何をしている?」
そして、ふいに顔を上げお膳の上の料理を睨みつけながら叫んだ。
「何より、これは何なんだ!みんなには料理に見えてるようだが、俺には、真っ黒な塊にしか見えない!」
野口の言葉に5人が一斉に料理を見ると、氷が解けるように豪華な料理の姿が崩れ、その下から影のようなものに覆われた『真っ黒な塊』が現れた。
「うっ」「何だぁ!?」「えぇ??」「どうなっている……」「なんとまぁ」
次の瞬間、ガラスが割れるような音とともに灯りが消えた。
突然の事態に6人が動けない中、暗闇に包まれた大広間に、声が響き渡った。
「やれやれ、この時代にこれほど魔術の素養を持つ人間がいたなんて、想定外だったわ……」
言葉の終わりに指を鳴らす音。それと同時に、舞台近くに炎が浮かび上がった。
炎に照らされたのはこの宿の女将。しかし、表情が先ほどとは打って変わって冷たくなっていた。限りなく無機質で、まるで良くできた人形のようである。
舞台縁に腰掛ける女将に向かって、恐怖心を隠し切れず震えた声で野口が問う。
「……お前は、何だ」
女将が目を伏せると、その全身が黒い靄に包まれ、瞬く間にその姿が変わっていた。
「……私は、魔女だよ。……名前は、マリヤスカ」
退屈そうに、つまらなそうに、淡々と魔女マリヤスカは問いに答えた。