第一章 秘湯温泉宿にて・第一話
2015年12月。紅く色づき始めた木の葉が景色を彩る北関東の細い山道、その中をゆっくりと走るバンがある。
乗員は成人男性6名。全員がスーツを着ているが、上着を脱いだ者、ネクタイまで外した者、とそれぞれがくつろいだ様子で車内で談笑している。
何か面白いことでもあったのか車内でひと際大きな笑いが起きた後、3列シートの真ん中で話をしていた比較的若い男が、助手席へと声をかける。
「……で、あとどれくらいかかるんでしたっけ?噂の秘湯のお宿まで」
「う~ん、ナビちゃんはあと30分ちょっと、って言ってるんだけどねぇ」
「部長、ナビを『ちゃん』付けで呼ぶのは止めてください。そしてそんな曖昧な表示もしていません。予想到着時刻は現状35分後です」
「曽根崎さんは細かすぎっすよ!……それにしては、建物なんて見えないっすけど」
彼らはとある会社の一部署で働く社員達である。部長が声を掛け有志が集まった結果、慰安旅行として経費を使えることとなり、発案者の50歳代の部長から入社2年目の新人までのパートを除いた部署全員、合計6名が参加する旅行になった。
部内のナンバー2である40代後半の課長が幹事となり、口コミで話題になっているという山奥にある秘湯の温泉宿を目指していた。
「かなり奥まった所にあるから目印は分かりやすくしてある、とホームページには書いてあったんだが……」
幹事の曽根崎が不安げなことを言ったことで、一番若い、高校生くらいにもみえる男が途端に怯え始めた。
「ま、まさか、辿り着けないなんてことはないですよね……?」
3列目の席に座る40歳代の大柄な男が、豪快に笑いながら楽観的に返した。
「まぁ、大丈夫だろう。いくら秘湯とは言え、客が入らなきゃやっていけないんだ。そのうち見つかるさ」
「だと良いが……。せめて日が暮れるまでには着きたいんだがな」
時刻はもうすぐ午後4時。冬場で、かつ山の日暮れである。ヘッドライトはすでに点灯しているが、細かく蛇行する山道では先を見通せない。更に不運なことに、
「……霧が、出てきましたね」
まったく見えないという程ではないが、夜の山道で緊張しながら運転していると小さな視界不良が大事故につながる。
曽根崎は徐行運転で注意深く進みながら方針の転換を提案した。
「部長。今はまだ良いですが、これ以上霧が濃くなると進めなくなります。ここで停車して、最悪の場合は車中泊も念頭に置いてください」
「えぇ!?秘湯は?高級懐石料理は?美人若女将は!?」
「高級懐石なんて、言ってましたっけ……?」
「美人若女将ってのも初耳だな。マジか、日比谷?」
「いやいや、秘湯の温泉宿って言ったら当然セットで付いてくるもんでしょ!」
「ちょっと静かにしていろ、日比谷。運転に集中できん」
「まぁまぁ曽根崎君、冷静に冷静に。日比谷君も少し落ち着いてね……」
日比谷と曽根崎が静かになると、車内には重苦しい緊張感がただよい始めた。
数十秒ほどエンジン音だけが響く時間が過ぎる。冷えた空気にいたたまれなくなった部長は、仕切り直しとばかりにことさら明るい口調で方針を告げた。
「……うん、それじゃあこうしよう。次のカーブの先に何も見えなかったら、安全な場所で一時待機……」
「あの……、前に、何か……」
「うわ!野口さん、起きてたんすか。ずっと黙ってるから寝てんのかと思った」
「あれ?前に、灯りが見えませんか?」
6人が前方に視線を向けると、まるで待っていたかのように霧が晴れ、灯りとその先の横道がはっきりと確認できた。
「ほぉぉ、立派な赤提灯じゃねえか。風情があるねぇ」
「よかったぁ、もうダメかと思いました……」
「いや~、みなさんホントお疲れさんっす!とっととひとっ風呂浴びにいきましょう!」
「……こんな山奥に、温泉宿なんて……、大丈夫なのか?」
「秘湯って言うくらいだから、知る人ぞ知る穴場なんじゃないかなぁ?ここで間違いないんだよね?」
「はい。提灯の下に看板があります。屋号も間違いありません」
6人を乗せたバンは看板に従って横道へ折れた。緩い上り坂を進むと宿の姿が見えてきた。
車内の空気が緩む中、曽根崎は宿の屋号を思い出しながら独りごちた。
「……『奥居亭』ね。本当に、ずいぶんと奥に居たものだ」
お読みいただき、誠にありがとうございます。
第一章は現実世界での話です。主要登場人物の紹介も兼ねますので、異世界を楽しみにされている方もしばらく辛抱をお願いします。