ざくろ
ある日、夜鳥さんの店に入ってすぐに僕は「お?」と首を傾げた。
おぎゃあ、おぎゃあと赤ん坊の泣き声がしたのだ。赤ん坊は泣くのが仕事のようなものだ。それについては珍しくもなんともないのだが、こんな怪しい店で聞こえたことが問題だった。
あまり僕が言えたことではなかったが、夜鳥さんの店にはまともな客がほとんど来ない。つまり、赤ん坊を連れた人間がここにいるなんて有り得ないことだった。
僕は半信半疑になりながら店の奥に向かった。すると、そこにいたのはやはり夜鳥さんだけだった。いつものように葬式を彷彿させる黒い服を着て、木の実のようなものを食べていた。その木の実の正体が分からずにいる僕に夜鳥さんは、それが柘榴であることを教えてくれた。
名前は聞いたことがあるが、この目で見るのは初めてだった。透明な小皿に詰まれた赤い小さな粒は窓から差し込む太陽の光を反射していた。
夜鳥さんは「君には合わない味だ」と言って、葡萄を用意してくれたが、どうしてもと一口だけ食べさせてもらった。甘みなんてほとんどなく強烈な酸っぱさに僕は顔をしわくちゃにさせた。
急いで葡萄の赤紫の皮を剥いて口に放り込む。こちらは酸味なんて全くなく、ただただ甘かった。甲斐路という種類らしい。
柘榴を穏やかな表情で口に入れている夜鳥さんの後ろには、女性のマネキンが床に寝かせられていた。ゆったりなワンピースを着たそれは、虚ろな瞳で天井を見上げている。
「これ、売り物なん?」
「そうだね。こういう曰く付きの物は欲しがる客が多い」
「曰く付き?」
僕はマネキンをしげしげと観察した。デパートの洋服売り場でよく見るやつだ。火事の跡地から発見された黒焦げのマネキンが以前テレビで登場して、スタジオの出演者の顔が引き攣っていたことを思い出す。
だが、これは黒焦げでもどこかが破損しているわけでもない。
おぎゃあああ、おぎゃあああっ。またどこからか赤ん坊の泣き声が聞こえた。幻聴などではない。はっきりと聞こえた。
周囲を見回す僕に夜鳥さんがしゃがんで尋ねた。君も赤子の声が聞こえるのかと。
僕ははっきりと頷く。
「このマネキンを引き取ってからずっと聞こえるのさ。本当に赤子なのか、それとも赤子の声を発するだけの別のモノかは別として」
そう言いながら夜鳥さんはマネキンの腹部を優しく撫でた。
「マネキンの売り手はとある男の両親だ。男は一年前にもうすぐで子供が生まれそうだった妻を交通事故で亡くしていてね。抜け殻のようになっていた時に、街中の洋服店のショーウインドウに飾られていたこのマネキンを高い金を出して買い取った」
夜鳥さんはワンピースを下から思い切り捲り上げ、マネキンの下半身を晒した。
それを見た瞬間、僕はぎょっとした。マネキンの腹部にはぼっかりと穴が開いていた。
そして、その内部には黒いマジックで書かれた春美という名前があった。その名前がいくつも、いくつも書かれていた。執念めいたものが感じられ、僕は身震いをした。
「春美とは生まれるはずだった娘に付ける予定だった名前だよ。心が壊れた男はマネキンを妻だと思い込み、彼女に子供を産んでもらおうとした。この腹部に自らの体液で濡らした赤い薔薇をたくさん詰め込んでね」
体液。それが何を意味するのは、この頃の僕はすぐにピンときて思わず口を手で覆った。男はマネキンの中に娘の名前を書くことで、ありもしない子宮を作り出していたのかもしれない。
男はその後、自分の親に「やっと子供が生まれた。三人で旅行に行く」と楽しそうに電話で報告してから首を首を吊って死んだ。男の両親が亡き妻の私室に入ると、腹部に薔薇の花びらを詰め込まれた状態でベッドに寝かせられたマネキンがあったそうだ。
「可哀想に」
泣き止まない赤ん坊の声を聞きながら、夜鳥さんは小さな声で呟いてから柘榴の実を食べた。
その言葉は愛する妻と子供を同時に失った男に対してか。
それとも、無機質なマネキンに夫を奪われた妻になのか。
それとも、狂った挙句自殺した男の両親になのか。
それとも、何かを求めるかのように必死に泣き続ける狂気の産物になのか。
答えは見付からない。ただ、虚しさだけが僕の胸の中に広がっていった。