須佐之男命高天原を逐われる事
「…良いのですか」
背後からかかった声に、彼は振り向かずに抜き放った剣を鞘にしまった。肩に袋をかけると、無言で歩き去ろうとする。
「…良いのですか」
もう一度問い掛けられ、ため息をついた。意地でも振り返るまいと肩を怒らせ、ぼそりと呟く。
「…もう会わないと言ったのは姉上だ」
「…そうですね」背後の声はため息混じりに返してくる。「私はそれを伝えに来たのでした」
彼は肩の袋を担ぎ治し、背後の声から遠ざかろうと歩きだす。
「…ですが、良いのですか」
背後の声が再び彼を呼び止める。「…知っていますよ。お前が織女を…」
「…俺が殺した…俺が。間違いないんだ」
「…そうですか」
己の台詞を遮った彼の言葉に、沈んだ調子で背後の声は呟く。
「どのみちこの地ではお前の力を十二分に活かせなかった。…あまり自分を責めぬよう」
「すまない、兄上。…無理だ」
彼は肩を震わせ、搾り出すように言う。一瞬で、この地で浴びせられた憎悪の視線が脳裏に蘇った。
この地を汚す悪しき存在を祓おうと、斬れば斬るほど残るのは汚ればかり。周囲の視線は一秒毎に冷えていき姉の悲しげなため息に身も凍る日々。何もかもが耐えられなかった。
「お前には私や姉にない力があります。ただそれがこの地に相いれぬ物だったということ。それはお前が卑下すべき部分ではない」
優しい声も、彼の惨めさを掻き立てる要素でしかない。彼は噛み締めた奥歯から搾り出すように呻いた。
「なぜ、姉上や兄上の様な力が俺にはない?なぜ俺は汚すのだ、なぜ…!」
「…それはお前自身が気づかねば。私たちではお前の力を活かしきれぬのですから」
彼は押し黙る。声の言う通りだった。
「お前はこの地では生きていけない。しかしどこにも居場所がないというわけではありません。探しに行きなさい、姉上も私も、いつも見守っておりますよ」
「兄う……」
「…行きなさい。どうか健やかに」
振り返ろうとする彼を留め、声は静かに、しかし有無を言わさぬ調子で言う。彼は肩を落とした。
「…さようなら、兄上」
低く呟くと、彼は歩きだした。月明かりの照らす道を振り返らず進む。その背中を見送って、声の主は小さな声で囁いた。
「……行っておいで、私たちの愛する弟……」