33.しみじみとして
「樹……、好きな人って、誰のことだ……?」
ステージから下りた私を待っていたのは、死んだ魚のような目をした兄ちゃんだった。
「に、にいちゃん……?」
虚ろな目でぐっと詰め寄られ、肩を揺さぶられた。その狂気じみた雰囲気に恐怖しか感じない。
「一体どこのどいつがお前を誑かしたんだああああ」
「兄ちゃん怖い怖い怖い!」
ひい、と悲鳴を上げながらも、怖くて抵抗できない。しかし、すぐに正悟先輩がベリ、と力任せに剥いでくれた。
「ばか、樹が怯えてんだろうが」
「お前は許せるのか正悟! 樹に、樹に……うわああああ」
「って健がご乱心なんだけど。樹、お前の好きな人ってだあれ? まあ、もしその好きな相手ってのが俺だったら平和的解決を見るんだけどなぁ?」
そう言ってきた正悟先輩も、口調こそ軽いが目は笑っていない。これはあれだ。名前を出した途端狩られる。もちろん、狩られるのは私じゃない。
「あ、あの……」
「先輩、その辺で。樹が困ってます」
すっと、先輩と私の間に入ってくれたのは喜成だった。その背中にドキリとする。
「善成、お前だって気になるだろ? つか、一番怪しいのはお前だ」
正悟先輩の言葉に、心臓が早鐘を打つ。これはあれか。やっぱり私は喜成のことを------
「いや、絶対俺じゃありえませんよ」
大体、樹はこの前まで男だったんだから。なあ?
小声でそう話を続けてこちらを振り返った喜成を見て。
私は。
頭を、ガンと打たれた気持がした。
「あ、はははー、やだな兄ちゃんたち。あんな場所であんな質問されたから戸惑っただけだって! 琴美、行こ! 模擬店の撤収しなきゃ!」
「あ、いっちゃん! ちょっと待ってよー!」
纏わりつく熱気が気持ち悪い。走ったら爽快になるかと思って駆け出したが、余計に息苦しくなっただけだった。
「いっちゃん、テントの撤収は男子するし、ゴミ出しとか教室整美とかは明日だよー?」
渡り廊下の真ん中で立ち止まる。息が切れて、肩が上下した。そんな私の後ろから、琴美が心配そうな声で問いかけてきた。その綺麗な手が未だ呼吸の整わない私の肩に触れる。
その瞬間、ぐるぐるしたこの感情が溢れ出しそうだった。唇を噛みしめて、その奔流を身の内になんとか押しとどめる。
「そういやそうだったね! もー走って損しちゃった」
振り返った先で琴美が仕方なさそうにほほ笑んだから、私の顔は上手く笑っているのだろう。
やっぱり私は、喜成のことが好きらしい。
まさか、それを確信する原因が失恋の痛みだなんて、全く笑い話じゃないか。
きっと喜成の中では、私はまだ男なのだ。
男が男に恋するなんて、喜成には論外なのだ。
しかも、ああ、そうだ。
喜成には好きな人がいるではないか。
喜成に私の琴美に対する恋心を伝えた時、喜成は私にああ言ったが、喜成が気に掛ける女の人なんて一人しかいない。
琴美だ。
私が琴美を好きだと言ったから、友情を重んじて他に好きな人がいると言ったのだろう。
そう考えれば辻褄が合うじゃあないか。
女の体になったのは、私と琴美と喜成が願ったからだ。
琴美は私に告白されたのだから、私と同じく気まずさを抱えていたはずだ。ならば‘樹’が女であればと願うのはおかしいことではない。
喜成は琴美が好きだった。だから私が琴美に振られてもまだ引きずっているのを見て、女であればと願ったのではないか。
頭のどこかで、見えないものを疑うなと声がした。
けれど、どう考えてもこれが正解に思えて。
私の中はとにかく、ああ、喜成のことを好きになっていたんだなあという、変にしみじみとした悲しさで満ち溢れていた。