27.こんがらがってほどけて
文化祭を来月に控えた校舎内は、どこかそわそわと落ち着かない。どのクラスも、今週中には文化祭の出し物を決定するのだろう。粛々と進む授業と生徒のテンション。それは微妙な齟齬と調和を生み出して日々が進んでいく。けれどそれと逆に、私は暗い気持ちでぼんやりと過ごしていた。
琴美と喜成が、私が女ならと願っていた……?
確証は無い。確証は無いが、しかし、その仮説は心にじくじくと巣食った。
そのせいで、喜成だけでなく琴美ともうまく話せない。昨日も今日も朝は二人を置いて行ったし、帰りも隙をついて一人で下校した。席替えがあって教室内では琴美と離れていて助かった。授業はぼんやりしながら過ごして、休み時間はとにかく一人になった。笑って喋るって、どうやったら良かったんだろう。
「樹」
「……兄ちゃん」
昼休み。あてどなく廊下を歩いていたら、腕を掴まれた。見ればそれは兄ちゃんで、何故か辛そうな顔をしていた。
「どうしたの?」
「それはこっちのセリフだ。ここ数日お前変だぞ。特に一昨日からなんてひどい顔してる。何があった? 喜成と琴美になにかされたか?」
喜成と琴美。その名前を聞くだけで、心臓のあたりがきゅうっと痛む。
「何も。何もされてないけど、……なんか、わかんなくなっちゃった……」
俯いて、目に入る足先。鼻の奥がつんとして、足先がゆっくりと揺らめいていく。
「なんで、なんでこんな、こ、と……っ」
口を開いたらしゃくり上げて、必死に口を噤む。視界を揺らめかしたものは、雫になってぽつりぽつりと足元に落ちた。
なんで、こんなことになっちゃったんだろう。
「樹……」
兄ちゃんは私の手を引いて、肩を抱き寄せた。額にシャツ越しの兄ちゃんの体温が伝わる。そのまま頭を撫でられて、私はこんな状態なのに「違う」と思ってしまった。落ち込んだときに撫でてくれる、あの二人の手と違う。喜成と琴美の手と違う――――――。
兄ちゃんに手を引かれた私は、今は保健室にいた。明らかに泣き顔の私を見て、保健室の先生は「暫く休んでいきな」と優しく迎え入れてくれたので、その言葉に甘えてベッドに横になる。白く静かな空間の中で頭を巡るのは、喜成、琴美、女になった体、お地蔵さん。ぐるぐる回って、なにも解決策が出ない。
何度目かのため息をついたとき、カーテンの向こう側から声がかかった。
「樹、起きられる?」
「はい……?」
先生の声だ。ベッドから降りてカーテンの隙間から覗くと、先生が笑顔で手招きをしている。
「おいで、ちょっとお茶にしよう」
まだまだ夏日が続く五時間目。私の他に保健室で休んでいる生徒はいなかった。
少しの引け目を感じながら、先生に勧められるままパイプ椅子に座る。具合が悪い人のためにだろう、適温に設定された保険室内は教室と違って汗ばむこともない。そんな中で差し出された緑茶の温かさを、湯呑越しに手で感じる。
「どうぞ」
「いただきます……」
ふうふうと冷ましてから、一口啜る。久しぶりに口にした温かい飲み物は、体の中心から暖めてくれた。ぐるぐるしていた頭が、一時の平安を取り戻す。
「あったかいお茶って、良いよね」
「そうですね」
さっきとは別の意味で、ほう、と息をつく。肩から余分な力が抜け、少し眠いような、ぽやぽやした温かさが体を満たす。
「落ち着いた?」
「……少し。ありがとうございます」
「んーん」
先生は、空になった私の湯呑にお茶を足してくれた。頭を下げてそれを持つ。新しい熱が、また手のひらから伝わる。
「何があった?」
「なんていうか……、信じてたものがもしかしたら真逆のものだったかもしれない……みたいな」
「うん? 期待を裏切られた、ってこと?」
裏切られた。その言葉はしっくりくるようで、それでも何か噛み合わない。
「ちょっと違う……かな。なんだか私にもまだよくわかんなくて」
「うん、いいよ。言える範囲でいいから」
「裏切られた、のかなぁ……。私の考え違いだったらいいなぁ……」
「まだはっきりとはわかってないんだね」
「そう、ですね……」
でも、限りなく黒に近いグレー。そんな感じだ。だからぐるぐるする。
「はぁ、答えが欲しい……」
そう呟いた私に、先生はふーむと唸って口を開いた。
「出口のない迷路に迷い込んじゃってるわけか」
「そんな感じです……」
「そうだねぇ。別に見えないとこまで見ようとしなくても良いんじゃない?」
「それって……?」
先生の言いたいところがよくわからなくて、首を傾げて先を待つ。
「不確定要素で頭悩ませるよりはさ、まず目に見えてるところから答えを導き出すの。絶対にこれは確実だ! っていうのを寄せ集めて、ね」
「目に見えているもの……」
「そう。人間の頭は一つしかないし、手は二本しかない。『もしかしたら』なんてのは考えれば考えるだけ出てきちゃうから、頭で処理しきれなくなっちゃうんだよ。だから私はゴチャゴチャしてきたら一旦ストップして、目に見えることからまた考え直すようにしてる。自分で見たり感じたりしたものって、自分の中では一番正確な情報だろう?」
自分で感じたものが、自分の中での一番正確な情報。
それは確かに頷けることだった。
「そしたら、もう一回考えてみな。私はちょっと仕事するから、ここで座ったままでもいいし、ベッドで横になってもいいよ」
「じゃあ、このまま」
そう言うと、先生はにこっと笑って自分のデスクについた。私は手の中の湯呑を弄びながら、また考え出す。
悩んでいる一番の原因は、女になった原因が喜成と琴美が願ったからかもしれない、ということ。もしそうだとしたら、男だったときの自分を否定されたということだ。そこが一番辛い。
でも、それは「見えないところ」だ。見えるところで考えれば、もし二人がそう願ったとしても、あのおまじないが本当ならば、私が願わなければ女にはならなかったということ。
そしてそれら全てが不確定要素。二人が願ったかなんてわからない。
確定要素は喜成と琴美の存在、そして私が男から女に変わったということ。男の時と女に変わってからと、二人の態度は変わっただろうか。
答えは否だ。今まですごく嫌われていたわけでも、女になってから嫌われたわけでもない。いつだって二人は優しい。
いつだって、優しいのだ。
それは二人といつも一緒にいる自分が、一番よくわかっている。
男だ女だ関係なく、いつでも二人は“樹”に優しい。昔も今も、変わらず。
性別なんて関係ないところで、大事な、大切な存在なのだ。
そこまで考えたところで、ぐるぐるが収まったのがわかった。
別に私自身が否定されているわけじゃない。そこに行き着いて、心はさっきまでが嘘みたいに凪いだ。
「かもしれない」は一旦全て忘れよう。臭いものに蓋かもしれないけれど、現状に不満などないのだから。
丁度そのときチャイムが鳴った。教室に戻ったら、距離を置いたことを二人に謝ろう。兄ちゃんにも心配かけたことを謝ろう。そう考えて、私は椅子から腰を上げて、
ガターンッ
……固まった。なぜなら、ものすごい勢いで保健室の戸が開いたからだ。心臓が止まるかと思うほどびっくりした。
「いっちゃんッ!」「樹!!」
その犯人は、なんと琴美と喜成だった。必死の形相の二人に、私は何も言えずに固まったままでいるしかない。先生だけが二人に「保健室では静かにしな」と苦言を呈した。
「喜成……琴美……」
二人の姿を認識した途端、涙腺が緩んで涙がぶわっと溢れた。
「えっえっいっちゃん!? な、泣かないで、私なにか嫌なことした? ごめん、ごめんね」
戸惑った声の琴美が、駆け寄ってくる。
「ち、ちがう、ごめ、ごめん」
私が一人でこんがらがってただけ。涙声のままそれだけは伝えて、あとはつっかえながら謝ることしかできない。そんな私の頭を、二人は静かに撫でてくれた。
その手の暖かさは、胸にしっくりくるもので。
私は二人の優しさに甘えているんだなと。自覚しても、どうにも離れられないことがわかった。
とりあえずシリアスターン終