中編
「見なし災害認定? 知らなかった。すごいんだな、俺の魔女さんは」
感心する樋口の職務机の上に、夏目がそっと六法全書を置いた。そこに明記されているらしい。
「ところで、今日は局内が妙に閑散としていますね」
「そうなんだよ。ここ最近、新型ウィルスでも流行してんのかってくらい病欠が増えてる。民間人のほうはもっと酷いらしいぞ。街が静かだっただろう」
死んだ魚のような目で上司と部下のやりとりを眺めるのは、目覚めてからも決して庇護者のそばを離れようとしない魔女だ。
時折すがるように見つめるたび、夏目は言葉と視線で「大丈夫だ。私が守るよ」と保証してくれる。小娘さながらに胸を踊らせる一方、背徳の情熱に駆られそうな予感に戦慄もした。げに恐るべきは魅惑の中佐かもしれない。まずい、まずいわ。気をしっかり持つのよ月冴、と必死で自身に言い聞かせ続けている。
魔女は覚悟を決めていた。一刻も早く濡れ衣を晴らして森へ帰るのだ。それ以外に心の平穏を取り戻すすべはない。
「ん? ちょっと待ってよ、存在が疑問視されてるような状況で、どうして樹海に進軍なんていう話になるの」
極力樋口のほうを見ないように気をつけつつ、魔女は尋ねた。手元でせかせか動かしているのは彼に借りたトランプだ。魔女の本領のひとつである卜占で、行方不明者の居所を突き止めようと試みている。
「おおかた演習の一環じゃないか? 仮想敵がいるほうが盛り上がるだろう。だよな、中佐」
「否定はしません。ただし部長以外は本気で信じているのも事実です」
「そうだな、その盲信のせいで真相究明が滞ってるんだから話にならない」
樋口の言葉に、魔女は盛大に顔をしかめた。
「なんて迷惑な。演習で私有地を侵略されちゃたまんないわ」
何より国防費といえばもとは税金、魔女とてその一端を担っているはずの血税だ。無駄な方向に浪費させてよいのか、いや、断じてよくない。
「おや、あのあたりは俺の魔女さんが所有者だったのか」
「永田町は演習どころか完全に本気ですね。このままでは近日中に出動の国会承認が下りるでしょう」
「いよいよ理不尽な展開だこと」
うんざりしながら魔女は関係書類を手に取った。その中の一葉の写真に、ふと目を留める。写っているのは絵だった。白と黒の二色で影絵のようになっている。箒にまたがった女性の姿に見えないこともない。
「夏目ちゃん、これは何?」
「行方不明者たちが自宅なり職場なりに残していたものだ。名刺大のカードで、裏には文字が印刷されている。次の写真がそれだ」
夏目に促されるまま二枚目の写真を見た。
「あらあら、まあまあ。『樹海に集え』?」
確かにそう書いてあった。
「ああ、つまりそれが、俺の魔女さんにかけられた容疑の決定打になった。魔女の絵と樹海が揃えば示唆するものはただひとつ、俺の魔女さんってわけだな」
「えー……なんて短絡的な。集われても困りますよーお客さーん」
俺の俺のと繰り返される修飾語が不愉快だったが面倒なので聞き流す。見たところ彼の魂の輝きは申し分ないのに、黙っていられない性質らしいのが実に残念だと思った。
名を教える気はまだない。魔女の名前を呼ぶには許可が必要となる。魔女本人に教えられて初めて口に出すことができるのだ。それまでは、たまたま耳にしたとしても認識できない。魔女の世界は独自の律で成り立っているのだった。
「ええと……このカードを残して失踪する者が出たのは半年前、以来増加の一途をたどり、ここ一ヶ月の間に千人にのぼった。一家まとめて消えた例も少なくない。居住地も職業も年齢もさまざまだが、いずれも取り立てて変わったところのない一般人。ふーん」
魔女が資料を読み上げ、考え深げに首をこてんと倒した。
「近所の人の証言があるのね。日の出と日没のころにベランダに出て、東の方角に拝んでいた? 毎日? へええ。日没でも東なのか、じゃあお天道さまにお祈りしてたわけじゃないね。ちなみに、どこの話かっていうと……山口県は下関か。ふぐがおいしいよね、夏目ちゃん」
これらに目を通す限り、ばらばらの失踪者たちをつなぐ糸は特に見あたらない。地域に若干の偏りはあれど、わかりやすい共通点がないのだ。唯一にして明確なつながりが「樹海の魔女」なのだから、魔女としては気が滅入る。
「下関から見た東というなら、ここもそうだな」
「あとさ、千人ってかなりの数だよね。一箇所にみんないるとしたら、そんなに長いこと隠れたり隠したりできるもの? 食費も光熱費も大変だよ」
「死んでなければな」
身も蓋もないことを樋口に言われた。千人の死体を隠すのも、それはそれで大変そうだと魔女は思った。
「月冴。状況を整理させてくれ。現在のところ問題は大きく二点、失踪事件と樹海侵攻計画だ。後者については、月冴が前者と関わりのないことを示せば食い止められるだろう。しかしそのためには失踪事件の真相を明らかにせねばならない。そこで提案なのだが」
「俺が、俺の魔女さんの身柄を確保したと公表して時間を稼ぎつつ、事件の全容を解明するってとこか? 中佐」
しかり、と夏目が頷き、ついで魔女の目ををひたと見つめた。
「あなたには一方的に不便を強いることになって心苦しいが、どうか聞き入れてもらえないか? あなたの森を、私もこよなく好んでいるんだ。もちろん、あなたのことも」
乙女の夢を凝縮して男性にしたら、おそらく夏目のような姿をしていることだろう。
「手、手っ」
赤面しながら訴えた魔女だが今回は放してもらえなかった。承諾を示すのが先、ということらしい。まごまごして首をぐるりと巡らしても、助けを求めるには明らかに不向きな人間しかいなかった。
不向きな樋口はどこか不満げな雰囲気を醸し出している。その視線は、夏目に握られた魔女の手へ、誤解しようのないほどしっかり固定されていた。
一瞬、まるで恋のさや当ての渦中に置かれた気分になった。実情を思えば空しい。一方は天然たらしの女性で、もう一方はこちらの寄る年波にしか興味がないのだ。
魔女はしょぼくれた。
「まいっちんぐ……」
そしてふと黙り込んだ。
「月冴?」
「おい、中佐。俺の魔女さんの様子がおかしい」
「確かに。もっとも、今日の彼女は徹頭徹尾おかしいのですが」
魔女は聞いていなかった。はたから見れば項垂れている体だが、実際は食い入るように手元の写真を注視している。
彼女は今、できれば開きたくない記憶の扉の前にいた。おそるおそるその取っ手に触れる。ややあって離す。掴む。離す。しばらく握りしめる。やはり離す。
魔女の中のケセラセラ守護天使が背後に現れ“やめときなよ”と左肩に手を置き首を振った。“そうもいくまい”と右側に立つのは正義を司る守護天使だ。
“黙っててよ右。今どき熱血なんてお呼びじゃないわ。知らないほうがいいことだってたくさんあるでしょ。放っておいても誰かがなんとかするわよ”
“左よ、見たくないことから目をそらして何になる。魔女の本分は見ること、聞くこと、寄り添うことだ”
“魔女の本分は不干渉よ。レットイットビーよ。あとは野となれ山となれ……どうにかなれ! さあ引っ込んでなさい、邪魔よっ”
“むむ、何をする”
“ちょっと、痛いじゃないの! 親父にもぶたれたことないのに”
“甘えるな。だからおまえはいつまでも半人前なんだ”
“なんですって? もう怒った、あんたの守護対象者でーべーそー”
“それはこちらの台詞だ”
“もうやめた。誰が二度とこんな魔女を守護してやるもんか!”
“それもこちらの台詞だ!”
「だあああああ! シャラップ!」
弾みでつい魔女は脳内の扉を蹴り開けていた。そして危惧していたとおり、遺憾な思い出と遭遇した。
こうして魔女は、一葉の写真をきっかけに、だいたいのところを察した。そうせざるを得なかった。
「はぁ……」
体内の空気をすべて絞り出すようなため息ののち、おもむろに懐から風呂敷を取り出す。そしてそれを器用に結び、手提げ袋に仕立てた。そこで顔を上げた。二対の瞳が興味深げに、静かに魔女を見ていた。
「ちょいとばかり、待ってね」
説明は後回しにして、魔女は風呂敷製簡易バッグの中に片手を差し入れた。しばらく指先をさまよわせる。探しているのだ。やがて目当てのものの感触をとらえ、ぐいっと引っ張り出した。古びた和綴じの冊子だった。
「はい」
曇り空を表情にしたらまさしくこうなるだろうという面持ちで、魔女はそれをそっと彼らに手渡す。
「え、これ今どこから出てきた?」
「わたしの自宅の書庫の奥底から」
きょろきょろする樋口に、どんよりと魔女は答えた。無理矢理に取り出したので、きっと書庫では雪崩が起きているだろう。それもまた気が重い。
「布の結び目を通して空間も結んだの。それより、見て。表紙をめくったところ」
言われたとおり樋口が表紙を開く。夏目は横からのぞき込んだ。
「これはまた、年季の入っていそうな古文書で……って、この絵は」
「よく似通っていますね。箒ではなく大きな針葉のようなものに乗っていますが。背景は富士山でしょうね。これを当世風にすれば、あのカードの魔女の絵になりそうです」
夏目が表紙をもう一度見て、首をかしげた。
「『巫覡神裏之教 巻之一』? 月冴、これは?」
「巫覡ってのは、この場合シャーマンとしてのわたしたちの通り名のひとつ。魔女とか魔男とか呼ばれる前の話ね。それをこちらの許可もなく祭り上げて成立した巫覡神裏教っていう新興宗教の教典、の一部がそれ。読んでないから教義はよく知らないし、てっきり維新後の弾圧で潰されたと思ってたんだけど、その絵、似すぎてるよね……」
言葉を濁した魔女は、突如かっと目を見開き、その数秒後には窓の外にいた。いつの間にやら浮遊する竹箒に横座りしている。軽く手をひらつかせたほかは室内のふたりへの挨拶もなく、そのまま背を向けて空の彼方へ飛んでいった。あっという間の出来事だった。
「窓だな」
「窓ですね」
あとに残された上官と部下は呟き合った。
この執務室の窓は開閉不可のはめ殺しだったはずだが、今しがた魔女が通り抜けた瞬間に限り、中央が巨大な両開き窓と化していた。しかしすでにその痕跡すら残っていない。
さもありなんと夏目は納得した。一年も付き合っていれば、このくらいの芸当はかの魔女にとって朝飯前なのがわかる。現に手慣れていた。魔女が実在していることすら知らなかった上官には驚きの光景だろうと隣をうかがった彼女は、すぐ思い違いに気づいて視線を外した。あくまで彼は彼だった。
「なあ、見たか? 俺の魔女さんが窓の向こうで最後にこっそりバハハーイって言い残したの。語彙の絶妙な古めかしさがさすがだよな、一体いつの生まれなんだろう」
期待に満ち満ちた顔と声でひとりごちている。もはや夏目は一顧だにせず、正規の出入り口に向かった。
「部長、行きますよ」
「どこに」
「騒ぎが起きているところに」
樋口は手元に視線を落としたまま、断言する夏目に頷いてみせた。
「悪くない手だ。だが惜しい。N富士タワーだよ」
「N富士タワー?」
夏目が怪訝な口調で繰り返す。樋口は先程の書物をひらいたまま彼女に差し出した。
「ここ、読んでみろ。毎朝毎晩、富士山に向かって叩頭しろと書いてあるだろう。一冊ざっと目を通したが、どうもこの巫覡神裏教ってのは富士山信仰の流れも汲んでるみたいだな。永遠の霊魂の安寧は富士山との調和にあり、そのためには富士山の化身たる巫覡人に忠誠を捧ぐべしとかなんとか」
「……そういえば、下関から見た東の方向には富士山もあります」
「結構不穏な記述もあるぞ。目的の妨げとなる障害物を祈りによって取り除く方法、だとよ」
「障害物を取り除く? 祈りというより呪いですね」
このご時世では案外知られていないが、呪術行為はれっきとした犯罪にあたる。呪詛とその対象に起きた不幸との間に、因果関係が証明される必要はない。行為それ自体が違法扱いだからだ。
「祈るための人間を集めて富士山麓に埋めるらしい。えぐいな、これは生け贄ってやつだろう」
この短時間で得体の知れない古文書を精読してのける上官に、夏目は神妙に耳を傾けた。
「そのうえ、見ろ、開祖の姓が新渡戸だぞ。N富士タワーのNが新渡戸の略なのは、もちろん知ってるだろう? 旧財閥の」
「いえ、実を言うとニッポンのNだと思っていました……するとN富士タワー株式会社は新渡戸系列の企業でしたか」
恥じ入りながらもこのとき夏目は、魔女がこの地をいかに表現したかを思い起こしていた。
「……なるほど。抜かりました。ちなみに部長、占いの結果を見てください」
魔女が執務机の端に置いていったトランプは、一段目に2が二枚、二段目に3・7・7・6の順に六枚が、左右対称の配置に並べられている。ちょうど山を模しているような形だ。
「下の3776は富士山の標高っぽいが……22はまさかフジか? 語呂合わせ?」
「月冴らしいですね」
魔女は言っていた。
――この地に、何か悪いものがいる。闇に身をひそめてるんだわ。