第二十二話「北山町へ」
◇◇◇◇
出発は朝の早い時間だった。
空が白み始めた頃に、四人が霧の家を出た。
ホームズ、ロン、ポワロ、アーティ。
玄関でライラが見送った。
「気をつけて」
「気をつける」とロンが答えた。
「何か見つかったら、教えてください」
「教える」
「父によろしく伝えてください。北山町の話を、聞きたがっていたので」
「伝える」
ライラが四人を順番に見た。
アーティのところで、少し止まった。
「アーティさん」
「なんだ」
「祖母の手紙、持っていきますか」
アーティが少し間を置いた。
「持っていく」
「よかった」
「なぜよかった」
「持っていった方がいい気がしたので」
「勘か」
「はい」
アーティが小さく頷いた。
ポワロが微笑んだ。
エーテル教授が図書室の入口から顔を出した。
「一つだけ」
「なんだ」とロンが言った。
「北山町の南側に、古い橋がある。橋の近くに市場が立つ日がある。今日がその日だ」
「どこで調べた」
「昨夜、資料で確認した」
「役に立つかもしれない」
「立たないかもしれない。でも知っていて損はない」
教授が図書室に戻った。
ロンが小声でポワロに言った。
「教授は、なぜいつも最後の最後に言う」
「わからない」とポワロが小声で返した。
「訊いたことがあるか」
「ない」
「訊いてみるか」
「いつか」
「いつかでいい」
◇◇◇◇
北山町への道は、思ったより変化があった。
最初は町中の石畳が続く。
それが途切れると、土の道になる。
しばらくすると、川沿いの道に入る。
川を渡ると、山の麓が近くなる。
道が少し急になる。
ロンが先頭を歩いた。
ポワロが続いた。
ホームズが地図を確認しながら歩いた。
アーティが最後尾を歩いた。
「山が近いな」とロンが言った。
「そうだな」とポワロが答えた。
「この辺りの人間は、毎日こういう道を歩くのか」
「住んでいれば慣れるだろう」
「俺は慣れないかもしれない」
「どうして」
「坂が多い」
「ロンは坂が嫌いなのか」
「嫌いではないが、好きでもない」
「どっちでもないのか」
「どっちでもない」
「それなら問題ない」
「そうだな」
アーティが後ろから言った。
「二人は、道を歩きながらよく喋るな」
「そうか」とロンが振り返らずに言った。
「そんなに喋っているつもりはない」とポワロが言った。
「喋っている」
「静かに歩いた方がいいか」
「別にいい。ただ、思ったことを言った」
「アーティが思ったことを言うのは珍しい」とロンが言った。
「たまに言う」
「最近増えた気がする」
「そうかもしれない」
「いいことだ」
アーティが少し間を置いた。
「そうかもしれない」
◇◇◇◇
道の途中に、小さな休憩所があった。
屋根だけの簡単な造りで、木のベンチが二つある。
先客が一人いた。
老人だった。
白髪で、背が少し曲がっている。
大きな荷物を横に置いて、休んでいた。
四人が通り過ぎようとしたとき、老人が声をかけた。
「北山町へ行くのか」
ロンが止まった。
「そうだ」
「商売か」
「違う。人を探している」
「人を」
「昔、北山町にいた人物の子孫だ。ヴェルトという名前の画商を知っているか」
老人が少し考えた。
「ヴェルト」
「三十年以上前に、北山町で絵を売っていた」
「ヴェルト、ヴェルト」
老人が首を振った。
「その名前は知らんが」
「そうか」
「ただ」
老人が顔を上げた。
「北山町に、絵描きの家がある。今も代々、絵を描いている家だ。もしかしたら関係があるかもしれん」
「どこにある」
「町の北の端だ。古い石造りの家で、表に絵が飾ってある。すぐわかる」
「ありがとうございます」とポワロが言った。
「どういたしまして。気をつけて行きなさい」
四人が歩き始めた。
老人が後ろから言った。
「市場が立っているから、賑やかだぞ」
「知っていた」とロンが言った。
老人が少し笑った声が聞こえた。
◇◇◇◇
北山町に入ったのは、昼前だった。
老人が言った通り、南側の橋の近くに市場が立っていた。
色々な商品が並んでいる。
野菜、布、陶器、乾物。
人の行き来が多く、賑やかだった。
「市場を見ていく余裕はないな」とロンが言った。
「帰りに寄れるかもしれない」とポワロが言った。
「用が済んでから、だ」
「わかっている」
ホームズが町の構造を確認した。
「北の端だ。市場から反対方向になる」
「行こう」
四人で市場の脇を抜けて、北へ向かった。
町は小さかった。
歩いて十分ほどで、北の端に出た。
古い石造りの家が並んでいる。
その中の一軒に、表に絵が飾ってあった。
風景画だ。
山と、川と、木々が描かれている。
色の使い方が独特で、見る者を引き込む絵だった。
「ここだ」とホームズが言った。
全員が絵を見た。
アーティが一歩前に出て、絵を近くから見た。
「うまい」
「そうだな」とポワロが言った。
「ただうまいだけじゃない。何かある」
「何かというのは」
「見ていると、どこかへ連れていかれる感じがする」
「絵の力だ」とホームズが言った。
「三十年以上前に、こういう絵を描いていた人物がいた」
「ヴェルト・セノが描いたものと、同じ力を持っている」
「子孫が受け継いでいるのかもしれない」
◇◇◇◇
扉を叩いた。
ロンが三回、叩いた。
しばらく待った。
扉が開いた。
出てきたのは、若い人物だった。
二十代の前半か。
髪が短く、手に絵の具がついている。
耳は丸く、少し大きい。
「どちら様ですか」
「少し聞きたいことがある。ヴェルトという名前に、心当たりはあるか」
若い人物の顔が、少し変わった。
「ヴェルト、というのは」
「三十年以上前に、この町で絵を売っていた人物だ」
「曾祖父の名前です」
全員が少し静かになった。
「曾祖父」とロンが言った。
「はい。ヴェルト・セノ、という名前です」
「セノ」とホームズが静かに言った。
「はい」
若い人物が、四人を見た。
「ヴェルトの子孫を探していたのですか」
「そうだ」
「なぜ」
「長い話になる」
若い人物が少し考えた。
「中へどうぞ」
◇◇◇◇
家の中に入った。
広くはないが、整理されている。
壁に絵がかかっている。
棚に画材が並んでいる。
テーブルが一つ、椅子が四脚。
「四脚あるな」とロンが小声でポワロに言った。
「偶然だろう」とポワロが小声で返した。
「そうかもしれない」
若い人物がお茶を用意した。
「座ってください」
四人がテーブルを囲んで座った。
「名前を聞いていいか」とロンが訊いた。
「リカ・セノです」
「リカ」
「はい。女性の名前に聞こえるかもしれませんが、男です」
「そうか。俺はロンガーティー、ロンと呼んでくれ」
「こちらはポワロ・マッカーソン。ポワロです」とポワロが続けた。
「ホームズです」とホームズが言った。
アーティが少し間を置いた。
「アーティ、と呼んでくれ」
リカが四人を見た。
「どこから来たのですか」
「この町から半日ほどの場所だ。霧の家、という館に住んでいる」
リカの顔が、わずかに動いた。
「霧の家」
「知っているか」
「曾祖父が、話していたと聞いています」
「曾祖父から」
「直接ではないですが。祖父を通して。曾祖父が死ぬ前に、霧の家のことを話したそうです」
「何と言っていた」
リカが少し考えた。
「いつか、あの家の人間と会えるかもしれない、と言っていたそうです」
◇◇◇◇
「いつか会えるかもしれない」とロンが繰り返した。
「はい。祖父がよく話していました。曾祖父は死ぬ前に、霧の家のことと、兄弟のことを話した、と」
「兄弟のこと」とホームズが静かに言った。
「二人いたそうです。長子のルカと、次子のイン。追い出されるとき、三方向へ別れて逃げた、と」
「知っていたか」とロンがホームズに確認した。
「知っていた。手帳に書いてあった」
「リカ、曾祖父はルカとインのことを、話していたか」とホームズが訊いた。
「会えなかった、と言っていたそうです。どこへ行ったかわからなかった、と」
「曾祖父は、ずっと探していたか」
「探していました。でも、見つからなかった。最後まで、見つからなかった」
リカがお茶を一口飲んだ。
「祖父が言っていました。曾祖父は絵を描くとき、いつも同じ場所を描いていた、と」
「どんな場所だ」
「川沿いの、古い館のある場所です。実際には行けなかったけれど、記憶の中の風景を、ずっと描き続けていた、と」
「霧の家だ」とポワロが静かに言った。
「おそらく」とリカが答えた。
「描き続けていた」
「はい。死ぬまで。だから私も、その場所を描いています。見たことはないけれど」
リカが立ち上がって、棚から一枚の絵を取り出した。
古い絵だ。
紙が黄ばんでいる。
「これが、曾祖父が描いた絵です。一番古いものです」
テーブルの上に置いた。
四人が見た。
川沿いの道。
霧の中に浮かぶ、古い洋館。
霧の家だった。
◇◇◇◇
「霧の家だ」とロンが静かに言った。
「そうか、やはり」とリカが言った。
「行ったことがないのに、これだけ正確に描いていた」
「曾祖父の記憶の中に、あったんだと思います。子どもの頃に、近くにいたのかもしれない」
「住んでいたか、あるいは見ていたか」
「わかりません。でも、ずっと描き続けていた」
アーティが絵を見ていた。
しばらく、動かなかった。
「アーティ」とポワロが小声で言った。
「なんだ」
「大丈夫か」
「大丈夫だ」
「何か感じるか」
アーティが少し間を置いた。
「祖母が、霧の家のことを話していた理由が、わかった気がする」
「どういう意味だ」
「ヴェルトも、霧の家を覚えていた。イン、祖母も、霧の家を知っていた。追い出されても、別々の場所へ逃げても、みんな霧の家を覚えていた」
「曾祖父が建てた場所だから」
「それだけじゃない」
アーティが絵から目を離した。
「帰る場所として、覚えていたんだと思う」
部屋が静かになった。
リカが四人を見た。
「霧の家は、今も建っているんですか」
「建っている」とロンが答えた。
「そうですか」
「俺たちが住んでいる」
リカが少し目を丸くした。
「住んでいるんですか」
「五人で住んでいる。今日来ていないのは一人だが」
「五人で」
「そうだ」
リカが絵を見た。
「曾祖父が描き続けた場所に、人が住んでいる」
「ずっと住んでいる。俺たちの前にも、人がいた」
「空っぽになったことがないんですね」
「そうらしい」
リカが静かに言った。
「よかった」
◇◇◇◇
「一つ、渡したいものがある」とアーティが言った。
全員がアーティを見た。
アーティがコートのポケットから、封筒を取り出した。
古い封筒だ。
「これは」とリカが訊いた。
「俺の祖母が書いた手紙だ。届かなかった手紙が、七枚ある」
「届かなかった手紙」
「祖母はイン・セノという名前だった。ヴェルト・セノの妹だ」
リカが息を飲んだ。
「曾祖父の妹」
「そうだと思う。確かめるために、ここへ来た」
「確かめた、というのは」
「絵を見て、確かめた。祖母が霧の家のことを知っていた。ヴェルトも霧の家のことを覚えていた。同じ場所を、別々の場所から覚えていた」
リカが封筒を見た。
「中に、ヴェルトへ、と書いてあるか」
「書いてある」
「見ていいですか」
アーティが封筒をリカに渡した。
リカが封筒を手に取った。
静かに、丁寧に持った。
封は開けなかった。
ただ、手の中で、しばらく持っていた。
「届かなかった手紙が、届いた」
静かな声だった。
「そうだな」とアーティが言った。
「曾祖父は喜ぶと思います。妹のことを、ずっと気にしていたと聞いています」
「祖母も、手紙を書き続けていた。出せなかったけれど、書き続けていた」
「お互いに」
「お互いに、だ」
リカが封筒を胸に当てた。
窓の外の山が、静かに見えていた。
◇◇◇◇
「霧の家に、来るか」とロンが言った。
リカが顔を上げた。
「来てもいいのですか」
「来い。曾祖父が描き続けた場所だ。見てみたいだろう」
「見たいです。でも」
「でも」
「急に押しかけていいのか」
「押しかけてきた人間が、何人もいる。今も一人、居候している」
リカが少し目を丸くした。
「そういう場所なんですか」
「そういう場所らしい」
「霧の家がそういう場所だから、そういう人間が集まる」
「よく知っているな」
「曾祖父が、そう言っていたと聞いています」
「ヴェルト・セノが言っていたのか」
「はい。霧の家は、気になることを放っておけない人間が集まる場所だ、と」
ロンが少し間を置いた。
「その言葉は、何度聞いても正しい」
◇◇◇◇
帰り際に、リカが一枚の絵を持ってきた。
曾祖父が描いた霧の家の絵ではなく、リカ自身が描いたものだ。
「これを持っていってください」
「いいのか」とポワロが訊いた。
「はい。いつか霧の家を見に行く前に、絵を先に届けてほしいです」
「届ける」とロンが言った。
絵を受け取った。
霧の家の絵だった。
リカは行ったことがない。
でも、曾祖父の記憶を受け継いで、描いていた。
川沿いの道。
霧の中の、古い洋館。
細部が少し違う。
でも、霧の家だと、すぐにわかった。
「うまい」とアーティが言った。
「曾祖父には及ばないですが」とリカが言った。
「それはわからない。でも、いい絵だ」
リカが少し照れたように、顔を横に向けた。
「ありがとうございます」
「いつ来るか、決まったら知らせてくれ」とロンが言った。
「住所を教えてもらえますか」
「住所がはっきりしていない館だが」とポワロが苦笑した。
「川沿いの、霧が出る場所を探せ」とロンが言った。
「それだけでわかりますか」
「わかる。霧の家は、そういう館だ」
リカが少し笑った。
「わかりました」
◇◇◇◇
帰り道に、市場を通った。
ポワロが立ち止まった。
「少しだけ」
「少しだけ、か」とロンが言った。
「見るだけだ」
「見るだけで済むか」
「済む」
「それは信じにくいな」
ポワロが市場に入った。
ロンが後を追った。
ホームズが地図を確認しながらついた。
アーティが最後尾を歩いた。
ポワロが立ち止まったのは、陶器を売っている露店だった。
小さな器が並んでいる。
「いいな」とポワロが言った。
「買うのか」とロンが言った。
「一つだけ」
「一つだけか」
「一つだけだ」
「霧の家のカップは足りている」
「足りていても、いいものはいい」
ロンがため息をついた。
ポワロが小さな器を一つ選んだ。
山の形を模した、青い器だ。
「これにします」
器を買った。
丁寧に包んでもらった。
「満足か」とロンが言った。
「満足だ」
「では行くぞ」
「行こう」
◇◇◇◇
帰り道は、来た道を戻った。
夕方近くになっていた。
空が橙色に染まり始めている。
「うまくいったな」とロンが言った。
「うまくいった」とホームズが答えた。
「ヴェルトの曾孫に会えた。手紙も渡せた。霧の家に来ることも約束した」
「一日でよくできた」
「来るべきときに来た、ということかもしれない」
「何が来るべきときを決める」
ホームズが少し考えた。
「わからない。でも」
「でも」
「来たから、わかった。来なければ、わからなかった」
「それはそうだ」
ロンが歩きながら、空を見た。
橙色の空に、山の稜線が浮かんでいる。
「霧の家に帰ったら、全員に話す」
「ライラとセノ氏が待っている」
「教授も」
「教授は待っていないが、興味はあるだろう」
「そうだな」
ロンが少し笑った。
「いい一日だった」
「そうだな」とホームズが答えた。
珍しい言い方だった。
ホームズが一日を評価することは、あまりない。
でも今日は、そう言った。
「珍しいな、ホームズが」とロンが言った。
「今日は珍しい日だったかもしれない」
「そうだな」
アーティが後ろから静かに言った。
「祖母の手紙が届いた日だ」
「届いた」とロンが言った。
「そうだ」
「五十年以上かかったが」
「かかったが、届いた」
「それでいいな」
「それでいい」
◇◇◇◇
霧の家が見えてきたのは、日が沈む少し前だった。
川沿いの道を歩いていると、向こうに館の輪郭が見えた。
古い洋館の屋根が、夕空に浮かんでいる。
リカが描いた絵と同じ形だった。
曾祖父が描き続けた形と、同じ形だった。
「見えた」とポワロが言った。
「帰ってきた」とロンが言った。
アーティが足を止めた。
霧の家を見た。
夕空の中に、静かに建っている館を見た。
帰る場所として、覚えていた。
祖母が覚えていた。
ヴェルトが覚えていた。
曾祖父が建てた場所。
今、アーティがそこに住んでいる。
「行こう」とロンが言った。
「ああ」とアーティが答えた。
四人が霧の家へ向かって、歩いた。
◇◇◇◇
第二十二話 了




