エンディングの続きを、願わくばあなたと──勇者と聖女の物語だと思っていたのに、勇者の想い人は私!?
転生した公爵令嬢が、自分の役割を勘違いし続けるお話です。
湯船は人生を考える場所だ。
いや。
正確には、人生というほど大層なものではない。
明日の算術の授業は面倒だとか。
庭の木に登ったことが母にばれたら叱られるだろうとか。
そんな七歳児らしい悩みだ。
公爵家の浴室は広かった。
湯気の向こうで侍女たちが控えている。
私は鼻先まで湯に沈みながら、ぼんやりと天井を見上げた。
あったかい。
眠い。
このまま寝てしまいたい。
そう思って腕を持ち上げたときだった。
「……ぉお?」
違和感を覚えた。
ほっそ。
腕がほっそい。
いや七歳なのだから当たり前なのだけれど。
何だろう。
妙な感覚だった。
自分のものなのに、自分のものではないような。
私は両手を見つめた。
指が短い。
手のひらが小さい。
腕も足も身体も全部小さい。
子供の身体だ。
「…………」
そこでぴたっと考えが止まった。
なぜ私は今、子供の身体を見て驚いているのだろう。
私は七歳だ。
生まれてこのかた、すくすくと育っている、れっきとした七歳児だ。
なのに。
どうして私は、この身体とは別の身体を、知っているのだろう。
バチン、と頭の奥で何かが弾けたと思ったら、急速に流れ込んできた記憶。
湯船で膝を抱える細い身体。
二の腕に食い込む爪の痛み。
高層ビル。
電車。
スマートフォン。
本屋。
コンビニ。
残業。
休日。
友人との食事。
積み上がった漫画。
異世界転生。
悪役令嬢。
婚約破棄。
聖女。
勇者。
「あ」
声が漏れた。
この世界で生きていたら知らないはずの言葉たちが、腹の底に違和感なく馴染んでいく。
「マジか……」
ぽつりと呟く。
侍女たちは聞こえなかったらしい。
私は湯船の中で呆然とした。
異世界転生?
前世で読み漁ったあれ?
頭がくらくらする。
つまり前世の私は死んでいて。
今は公爵令嬢として生きている。
仲良しのお父さまとお母さま。
この前二歳になったばかりの可愛い可愛い弟。
それが私の家族だ。
うん。それが事実。
いや待て、事実ってなんだ。
ほんとってこと。
ほんとってなんですかあ?
大変だ、混乱してきた。
七歳までの記憶を疑ったって仕方ない。
しかし──。
ダメだ。
頭が熱い。
視界がぐらぐら揺れている。
「だからって、なんで公爵令嬢……?」
そう呟いて、私は意識を手放した。
翌日。
私は見事に寝込んでいた。
原因は明白である。
のぼせた。
完っ全にのぼせた。
転生だなんだと考え込みながら長湯した結果がこれだ。
情けない。
前世の私が聞いたら呆れるだろう。
七歳児としてもどうなのか。
ん?
七歳なら当然では?
「お嬢様、お加減はいかがですか?」
「最悪」
「元気そうで何よりです」
モニカは真顔で言った。
失礼な侍女である。
そこへ家令が来客を告げに来た。
「セシリア様がお見えです」
「通して」
返事をした直後、勢いよく扉が開く。
「ヴェロニカ!」
飛び込んできたのはセシリア。
淡い金髪が揺れる。
大きな瞳が心配そうにこちらを見ていた。
「大丈夫!?」
「痛恨の極み」
「熱は?」
「ない」
「頭痛は?」
「少し」
「食欲は?」
「絶好調」
セシリアはほっと息を吐いた。
その仕草が妙に可愛い。
いや、本当に可愛いなこの子。
昨日思い出した前世の記憶込みでも断言できる。
将来絶対美人だ。
しかも優しい。
神様の贔屓がすごい。
「心配したのよ」
「面目ない」
「昨日まで元気だったのに」
「ちょっと考え事をしてて」
「考え事?」
「うん」
転生とか。
異世界とか。
前世とか。
もちろん言えるわけがない。
すると。
「お嬢様」
モニカの声と重なるように。
「のぼせて寝込むとはな」
開いたままだった扉の向こうから、不躾な声がした。
「子供か、お前は」
子供なんだが。
扉の前に立っていた少年は、呆れたようにため息を吐いた。
艶のある金髪。
整った顔立ち。
幼いながらも溢れ出す気品。
王太子殿下だった。
「殿下。お見舞いに来たんだから、もっと別の言い方はないんですか?」
セシリアが抗議する。
「のぼせたやつに見舞いなどいらん」
そう言いながらも、王太子は私の顔をじっと見て、私と目が合うとすぐに視線を逸らした。
「顔色はましだな」
「おかげさまで」
なにこの美少年。
いや待て。
目の前の二人をまじまじと見つめる。
ザ・主人公。
ヒロインとヒーロー。
同じ七歳とは思えない。
マッジでお似合い。
「ヴェロニカ?」
セシリアが心配そうに首を傾げる。
そう、そして。
私の名はヴェロニカ。
アシュフォード公爵家長女。
ヴェロニカ・アシュフォード。
冷静に考えてほしい。
セシリア・ウェインライト。
侯爵令嬢。
可憐な金髪美少女。
優しい。
可愛い。
好き。
エルドリック・オーランド・レイヴェル。
王太子。
顔が良い。
とにかく、顔が良い。
そして私。
ヴェロニカ・アシュフォード。
……。
悪役令嬢じゃん。
どう考えても。
前世でこの手のウェブ小説をどれだけ読んできたことか。
何系?
魔法?
ざまあ?
身分差?
タグが知りたい。
「お嬢様」
「なにモニカ」
「お顔が悪いです」
辛辣!
今日のモニカも切れ味抜群。
なお、彼女の言葉に否定はできない。
♢
セシリアが聖女だと判明したのは、それから一年後のことだった。
私たちは八歳になっていた。
神殿で行われる加護の儀。
女神へ祈りを捧げ、祝福を受けるための儀式である。
参加するのは八歳になった令嬢たち。
将来の加護や魔力の傾向がわかることもあるらしい。
とはいえ、大抵は何事もなく終わる。
貴族の通過儀礼。
そんな認識だった。
少なくとも私は。
長い。
眠い。
帰りたい。
無理やり連れていかれた法事くらい長い。
儀式が始まって一時間。
私の感想は以上である。
「次、セシリア・ウェインライト嬢」
名前が呼ばれる。
セシリアは緊張した様子で前へ進み出た。
大丈夫だよ、と小さく手を振る。
彼女は少しだけ安心したように笑った。
そのまま神官に促されるまま、水晶へ手を置く。
そして。
祈りを捧げた。
次の瞬間だった。
眩い光が溢れた。
「っ!?」
思わず目を閉じる。
神殿全体を照らすほどの光。
水晶の内部で金色の輝きが渦を巻いている。
ざわり、と空気が揺れた。
「な……」
「まさか……」
「これは……!」
神官たちが息を呑む。
貴族たちが立ち上がる。
セシリアは何が起こったのか分からず、呆然としている。
「ヴェ、ヴェロニカ……?」
泣きそうな声でこちらを見た。
いや。
私に聞かれても。
私だって知らない。
でも。
前世の記憶が警鐘を鳴らしているのはわかる。
こういう演出。
見たことある。
めちゃくちゃある。
すると。
「女神の祝福だ……!」
大神官が震える声を上げた。
神殿が静まり返る。
「聖女の資質を持つ者が現れた!」
その瞬間。
歓声が上がった。
神官たちが跪く。
貴族たちがどよめく。
セシリアは完全に固まっていた。
そして私は。
「あー……」
思わず天井を見上げた。
なるほど。
なるほどね。
はいはい、そういう感じ?
理解した。
セシリアが聖女。
うん。
どう考えてもヒロインである。
私はそっと視線を上げた。
神殿の壇上。
王族席には、儀式を見守る国王陛下と王妃殿下。
その隣には王太子であるエルドリック。
彼もまた、その光景を食い入るように見つめていた。
「……」
うん。
知ってた。
ヒーローである。
女神様。
ありがとうございます。
おかげでジャンルがわかりました。
たぶん、恋愛ファンタジーです。
♢
セシリアが聖女候補だと判明してから、二年が経った。
私たちは十歳になった。
そして結論から言うと。
恋愛ファンタジーは始まっていない。
あの日。
神殿が光に包まれたあと何が起こったのか。
まずはセシリアの両親である侯爵ご夫妻。
娘の突然の異変にすぐさま駆け寄った。
「セシリアっ!」
「お、お父さまぁ……」
ピッカピカに輝く娘を目の前に。
「痛みはないか!?」
心配しておられた。
おもに体を。
うん。
気になるのはわかる。
次に神官たち。
初めこそ驚き、その光に圧倒されていた彼らだが、すっくと立ち上がり王家と何やら相談。
そのあとセシリアとご両親は神殿奥へ案内されたきりだった。
王族の方々はいつの間にか退席なさっていて。
私はてっきり。
王太子が歩み寄り。
聖女の手を取り。
運命が動き出すものだと思っていた。
そんなことはなかった。
『ぅおい! 何もないんかーい!』
そう叫びたかったのだが。
いつの間に背後に忍び寄ったのか。
お父様の大きな手によって、私の口は塞がれていた。
とにかく。
何が言いたいかっていうと。
この世界の大人たちは非常に冷静だった。
神殿に残された私たちも、キビキビ働く神官たちに促され解散。
ぽかーん。
結局、侯爵家、神殿、王家で何かしらの取り決めが行われたのだろう。
セシリアは今まで通り侯爵家で過ごし。
普通に勉強し。
普通にお茶会へ出席し。
普通に私の部屋へ押しかけてくる。
「ヴェロニカー!」
勢いよく扉が開いた。
入ってきたのはもちろんセシリアである。
両手には籠。
「見て!」
どん、と机に置かれた。
中には焼き菓子が山盛りである。
「神殿に行く前に作ったの。ヴェロニカにも食べて欲しくって」
「今から神殿行くの?」
「うん。定期検査」
定期検査。
夢もロマンもない単語である。
クリアファイル片手に「次は四番の受付へお進みください」じゃないんだわ。
聖女候補と判明したセシリアは、月イチで神殿へ通っているらしい。
力の変化がないか。
加護が強くなっていないか。
そういう確認らしい。
なお本人は元気いっぱいである。
「前より光った?」
「光ってないわ」
「なんだ」
「何でがっかりしてるのよ」
セシリアは笑った。
聖女候補と呼ばれるようになっても、セシリアは変わらなかった。
人の話をよく聞く。
困っている人がいればすぐに手伝う。
転んだ子どもがいれば真っ先に駆け寄る。
そういう、普通にいい子である。
たぶん聖女ってこういう感じなんだろうな、と私は思っている。
「相変わらず騒がしいな」
聞き慣れた声がした。
振り返る。
エルドリックだった。
不機嫌そうに立っている。
「殿下!」
セシリアがぱっと笑う。
「お菓子食べる?」
「いらん」
「美味しいのに」
「甘い」
「食べてないのに?」
「見れば分かる」
エルドリックが即答する。
セシリアは頬を膨らませた。
「神殿で配るんだろう? 数を減らすな」
……良い奴だ。
そう。
エルドリックはとんでもなく顔が良い王太子だが、普通に良い奴なのだ。
同い年ということもあり、生まれてからずっと幼なじみとして付き合ってきたが、口の悪さを除けば、彼ほど王太子に相応しい者はいない。
周りをよく見て、自分にできることを探している。
そんな奴だ。
「お前、また妙なこと考えてないか?」
「濡れ衣です」
エルドリックが疑わしそうに私を見ている。
失礼な。
私たちは昔からこうだ。
セシリアが我が家に来るときは、大抵エルドリックもやって来る。
ずっとそうやって一緒に過ごしてきた。
そして。
一緒にいるといつも思う。
セシリアとエルドリック。
やっぱりお似合いだ。
「そういえば」
セシリアが思い出したように言った。
「この前、神官様が昔の聖女様のお話をしてくださったの」
「へえ」
「聖女様が現れる時代には、大きな災いが起きるって伝承があるんですって」
「災い?」
「うん。でも何十年も前のお話だから、本当かどうか分からないらしいわ」
ほええ、と私は相槌を打つ。
そういう設定なのか。
なるほど。
「ヴェロニカ?」
セシリアは首を傾げた。
マッジで可愛い。
可愛いけど言えるわけがない。
今の私は。
進行スピードについて頭を巡らせているのだから。
だってさ。
この二年で増えた情報。
セシリアは聖女候補。
災いの伝承がある。
以上。
少なくない?
プロローグあたり?
主人公たちの出会いとか?
うん。
これはたぶん。
かなり長編だ。
そして、私のこの予感は、見事に的中することになる。
♢
セシリアの“定期検査”の回数が増えたのは、それから二年くらい経ってからだろうか。
生まれ月の早いエルドリックは十二歳。
セシリアと私はまだ十一歳のころだった。
西の国境近く。
辺境領の森で、魔物の出現が確認された。
幸い弱体種ばかりだったらしい。
辺境軍によって速やかに討伐され、被害もほとんどなかった。
けれど。
神殿は騒がしくなった。
聖女候補が見つかってからの魔物出現。
偶然ではないのではないか。
そんな声が上がり始めたのである。
それまで月に一度だった神殿通いは二度になり。
三度になり。
気がつけば、セシリアは週の半分を神殿で過ごすようになっていた。
「ごめんなさい。また来週ね」
以前なら毎日のように遊びに来ていた親友は、申し訳なさそうに笑う。
「気にしないで」
実際、気にはしていなかった。
少しだけ。
本当に少しだけ。
屋敷が静かになったなと思う程度だ。
一方。
エルドリックに会う機会はさらに減った。
王宮内で過ごすことが増えたらしい。
剣術。
魔術。
軍略。
歴史。
外交。
もともと忙しい王太子だったが、明らかに様子が違う。
「生きてる?」
私がそう言うと、セシリアは少し困ったように。
「……多分」
そう答えた。
前世の記憶が蘇ってからまもなく六年。
ようやく動き出したのだと悟る。
聖女。
魔物。
忙しくなるヒーロー。
忙しくなるヒロイン。
うん。
いよいよ本編突入か。
やがて、三人が十三歳を迎える年。
王立学園への入学の日がやってきた。
♢
学園生活は平和そのものだった。
少なくとも私にとっては。
セシリアとエルドリックは相変わらず、授業が終わればそれぞれが馬車に乗り込み神殿や王宮へ向かう。
そして、相変わらずは私も同じで。
ただ一つ。
問題があるとすれば。
私の立ち位置が分からないことだった。
聖女のヒロインがいて。
王太子のヒーローがいる
ならば転生者のこの私。
何かしらの役割があるはずだろう。
ライバル令嬢とか。
婚約者候補とか。
悪役令嬢とか。
しかし。
婚約していない。
候補ですらない。
ライバルになる気もない。
セシリア可愛い。
応援してる。
はっきり言って詰んでる。
「お嬢様」
「なにモニカ」
「また変な顔をしています」
「失礼な」
「本日三回目です」
数えてたの?
怖いんだけど。
ともかく。
私は調査を始めた。
二人に比べたら暇だし。
まずは悪役令嬢の可能性。
社交界の中心人物になれば何か分かるかもしれない。
結果。
お茶会の主催が上手くなった。
終わり。
次。
知略担当の可能性。
本を読んだ。
たくさん読んだ。
結果。
試験で首席になった。
終わり。
次。
婚約破棄される役の可能性。
お父様に尋ねた。
「あの、私の婚約の話は……?」
「ない」
即答。
終わり。
肝心のポジションは見つからない。
何なんだ私は。
「また首席か」
先週行われた定期試験の返却日。
隣から声がした。
エルドリックである。
「えへへ」
エルドリックは私の成績表を見つめた。
顔が怖い。
非常に怖い。
顔が良いから見てられるけど、普通に王太子としてアウトだと思う。
「ごめん」
「なぜ謝る」
「怒ってるから」
「怒っていない」
うっそ。
絶対怒ってる。
「だって顔が」
「なんだ」
「今にも人を殺めそうっていうか……」
エルドリックは下を向いて思いっきりため息をついた。
王太子としてどうかと思う。
「お前は、ほんとに——」
「ん?」
よく聞こえなくてエルドリックの顔に耳を寄せる。
「……っ! 何でもない」
さっきより深いため息とともに吐き捨てられた。
なになになになに。
ますます怖いんだが。
「ヴェロニカー!」
昼休み。
いつものように教室にセシリアが現れた。
成績順で振り分けられるクラスは、セシリアだけ別になった。
「食堂行きましょう!」
屈託のない笑顔。
そして元気である。
「神殿どう?」
「どうって?」
「昨日は学園休みだったから、一日中神殿にいたんでしょう? 大変じゃない?」
「そうでもないわ」
そうなの?
「お昼にシチューをいただいたの」
「うん」
「それから休憩して」
「うん」
「本を読んで」
「うん」
「疲れているから今日は帰りなさいって」
「うん?」
待ってほしい。
それだけ?
「聖女候補だよね?」
「そうよ?」
「神殿だよね?」
「神殿よ?」
「ホワイト神殿!」
「神殿はだいたい白いわよ?」
セシリアが不思議そうな顔をした。
説明はできない。
前世用語だから。
しかし。
私が想像していたものとは違った。
もっとこう。
厳しい訓練とか。
重い使命とか。
そういうものがあると思っていたのだ。
「無理は禁物ですっていつも言われるの」
「羨ましい職場だな……」
「職場じゃないわ」
確かに。
八歳から働かされていたら問題である。
そんな会話をしていると。
「お前ら、先に席に座っとけ」
エルドリックが三人分の注文をしに行ってしまった。
十三歳になった彼は、以前より背が伸びている。
顔もさらに良くなっていて、気遣いも完璧。
「殿下! 私とヴェロニカ、デザートもね」
セシリアが笑う。
エルドリックは振り返って少しだけ表情を緩めた。
私はそれを見て思う。
私にはいつも険しい顔してるくせに、セシリアにはよく笑うんだよなあ。
私ってほんと何なんだろう。
ポジションが分からなければ、その立ち回りもまた、分からない。
うん。
困った。
女神様!
私、何ポジですかあ!?
転生者が転生持て余してますよ!
♢
それから本格的に役割探しを始めて一年。
お茶会の参加者はますます増えた。
成績は変わらず首席。
初めの頃は思っていた。
もしかして私、前世知識で無双できるのでは?
と。
だって四大理系卒である。
だがこの世界は甘くなかった。
科目が違う。
共通テストに魔法理論は出ない。
チートで俺つええをやってみたかった。
しかし。
私には悲しい習性があった。
勉強癖である。
分からなければ調べる。
覚える。
積み上げる。
元々ガリ勉だったため苦にならない。
結果。
首席の座を守り抜いている。
終わり。
さらに暇だったので生徒会に入った。
結果。
二年生にして副会長になった。
終わり。
違う。
そうじゃない。
私が探しているのは能力ではない。
役割である。
物語としての立ち位置は、依然として分からないままだった。
セシリアは神殿へ。
エルドリックは王宮へ。
私は生徒会室へ。
いつしかそれが、当たり前になっていき。
やがて。
十五歳になる年の春。
セシリアは正式に聖女と認定された。
神殿がその事実を公表した日、王都は大騒ぎだった。
数十年ぶりの聖女。
伝承の再来。
大広場で行われた儀式には大勢の聴衆が押し寄せ、祝福の声が溢れた。
けれど同時に。
お父様含め、列席した貴族たちの顔は厳しいものだった。
魔物の出現報告は年々増えていた。
辺境だけだったものが、徐々に各地へ広がり始める。
まだ日常を脅かすほどではない。
けれど。
誰もが薄々気付き始めていた。
偶然ではないのだと。
そしてまもなく。
エルドリックは勇者に選定された。
選定と言っても、本人の意思は関係ない。
王家に伝わる儀式によって決まる。
代々、勇者は王族から選ばれる。
そして今回、選ばれたのはエルドリックだった。
勇者選定から数日後。
久しぶりに三人で顔を合わせた。
場所はアシュフォード公爵家の庭園。
さすがに自室にはもう招けない。
「おめでとう」
私がそう言うと。
「めでたくない」
エルドリックは嫌そうな顔をした。
十五歳になった彼は、私の身長をとうに超え、驚くほど順調に顔の良い男へと育っていた。
元から良かった顔が限界突破。
いや、まだいけそう。
「そうか。めでたくないか」
「ああ」
彼は吐き捨てるように言った。
「それで?」
私は紅茶を置いた。
「魔王が現れたときのために討伐隊が作られたって?」
私も、昨日お父様から聞いたばかりなのだ。
「討伐隊ってどんな人が行くの?」
気になっていた。
勇者と聖女だけで魔王を倒しに行くわけではないだろう。
冒険シーンには仲間がつきものだ。
「騎士団から四、五名。魔術師団からも数名が選抜される」
エルドリックが答える。
うん。
人数は気になるが、戦士と魔法使い。
「神殿側からも同行者が出るわ」
セシリアが続けた。
なるほど。
僧侶ポジね。
「あとは、治癒術を扱える人と、衛生班、食事係、補給係ね」
多いな。
完璧な遠征隊じゃないか。
「……そうなんだ」
現実的である。
実力主義だった。
そりゃそうか。
世界の命運がかかっているのだ。
「もう決まってるの?」
「ほぼな」
そう言ってエルドリックが名簿を差し出した。
見ていいんだ。
受け取って眺める。
知らない。
全員知らない。
見事なくらい知らない。
「知らない人ばっかり」
「当たり前だ」
エルドリックが呆れたように言った。
「何を考えている」
「いや、ちゃんとしてるなって」
そう言うと。
なぜかエルドリックは微妙な顔をした。
♢
その年の冬。
魔王が現れた。
各地で魔物が活性化し。
国境付近では軍の被害も増え始める。
そして十六歳の春。
勇者と聖女は旅立った。
盛大な出発式だった。
王都中の人々が二人を見送った。
国の希望。
世界を救う存在。
誰もがそう信じていた。
「行ってくるわ」
セシリアはいつもの笑顔だった。
「死なないでね」
私が言うと。
「縁起でもないわ!」
笑いながら肩を叩かれた。
頼もしいものである。
「必ず帰るから、お前も必ず元気でいろ」
エルドリックが言う。
「うん」
それだけだった。
二人を乗せた馬車が遠ざかる。
歓声が上がる。
旗が振られる。
私は馬車が見えなくなるまで、ずっと手を振っていた。
♢
それから二年。
学園に残った私は生徒会長になった。
仕事の効率化だけを求めて動いていたら、いつのまにか周囲の生徒からキラキラとした目で話しかけられるようになった。
相変わらず成績は首席だった。
エルドリックが抜けた分、ぶっちぎりの首位だった。
お茶会も社交界も顔を出した。
公爵令嬢として順調そのものである。
討伐隊の様子は、時折り号外として届く。
旅は予定より早い日程で、精力的に任務に邁進しているらしい。
恐らく、シゴデキが多数いるのだろう。
そして気付いた。
本当に。
今さらになって。
気付いてしまった。
私は。
何者でもなかったのではないかと。
ここにきて物語は。
私が何もせずとも進み。
私もまた。
彼らのいない二年間を生きていた。
そんなある日。
生徒会室の扉が勢いよく開いた。
「討伐成功だ!」
歓声が上がる。
「勇者様と聖女様が魔王を討ったぞ!」
一瞬。
頭が真っ白になった。
部屋中が騒がしくなる。
誰もが喜んでいた。
私も。
心の底から安堵した。
よかった。
本当によかった。
二人とも。
無事だった。
勇者は魔王を討ち。
聖女は世界を救った。
物語は終わったのだろうか。
私とは関係のない場所で。
勇者と聖女の物語は、誰もが望む結末へ辿り着くのだろうか。
♢
勇者一行帰還の日。
王都は朝から大騒ぎだった。
私は公爵家の観覧席から、家族と一緒に通りを見下ろしていた。
遠くから歓声が近づいてくる。
旗が揺れる。
花びらが舞う。
そして。
先頭の白馬に乗る青年が見えた。
思わず息を呑んだ。
知っている顔だった。
けれど。
あんな、顔だった?
肩幅、あんなに広かった?
私の知っている少年ではなかった。
セシリアもいた。
笑っていた。
元気そうだった。
それだけで、胸がいっぱいになる。
帰還から数週間。
二人は報告と式典に追われていた。
魔王討伐の詳細説明。
各国への報告。功績を称える祝賀行事。
王都中がお祭り騒ぎだったが、当の本人たちは目が回るほど忙しかったらしい。
そしてようやく。
私は王宮へ呼ばれた。
おそらく祝賀会関係だろう。
そう思っていた。
思っていたのだが。
「ヴェロニカー!」
扉が開くなり飛び込んできたのはセシリアだった。
「ぐえっ」
勢いよく抱きつかれる。
「会いたかった!」
「苦しい苦しい」
「元気だった?」
「うん。セシリアは?」
私も、とセシリアが笑う。
少しだけ背が伸びていた。
髪も伸びている。
討伐がどんなものだったのかまでは窺い知れない。
けれど。
笑い方は昔のままだった。
安心する。
本当に。
安心した。
「お帰り、セシリア」
「ヴェロニカ、ただいま!」
私たちはまた、ぎゅうっと抱きしめ合った。
「騒がしいな」
記憶より低い声がする。
振り返る。
そこにいたのはエルドリックだった。
一瞬。
言葉を失う。
遠目で眺めたときよりずっと。
背が高い。
顔立ちも大人びている。
肩には勇者の証だという外套。
堂々とした立ち姿。
確かにそこにいるのはエルドリックなのに。
別人みたいだった。
「……殿下?」
「何だ」
「また、育った?」
「お前な」
呆れた声が返ってくる。
でも。
その表情は少しだけ柔らかくて。
王宮で三人で会ったことなんてなかったのに、部屋の中は昔のままの空気が漂っていた。
「お前は、変わりなかったか」
エルドリックの言葉にケーキを口にしながら答える。
「私? 全然!」
「そうか」
「ヴェロニカらしいわね」
セシリアが微笑む。
絵になる二人である。
久しぶりに会って、やはりそう思う。
なのに。
ちくり。
胸の奥に痛みのようなものが走る。
何だ、今のは。
しばらく会っていなかったから、忘れてた?
ポンコツ過ぎるだろ、私の心。
旅の話を聞く。
道中は厳しい局面もあったが、入念に準備された人員と物資により事なきを得たらしい。
これは。
まさか。
ハイファンタジーの可能性?
「ねえ。魔王ってどんなだった?」
私の問いに二人は顔を見合わせた。
「ええと。……なんて言えばいいのか」
セシリアが困ったようにエルドリックと目を合わせる。
「疲れてた」
ん?
「時間押してるって部下に指示出してたな」
なに?
「机の横に書類山積みだった」
そうなの?
「側近に引き継ぎ書渡して……」
引き継ぐの?
「花束貰ってこっち来た」
私は少し考えて、その光景を思い浮かべる。
「退職者やないかい!」
何なのこの世界。
こんなの、ハイファンタジーであってたまるか。
気付けば窓の外は夕暮れだった。
二年間。
長かったはずなのに。
こうして三人で話していると、ほんの昨日の続きみたいだった。
「そういえば」
セシリアが思い出したように言う。
「卒業式、もうすぐね」
「あ」
そうだった。
討伐隊の帰還騒ぎですっかり忘れていた。
「二人とも卒業できるんだよね?」
「ああ。討伐中も校外課程として認められることになる」
私はほっと胸を撫で下ろす。
良かった。
一緒に卒業できる。
「卒業したらセシリアは神殿?」
「ええ。今度こそ本格的に」
「忙しそう」
「そうね。でも結婚の準備もしないといけないし」
「へえ」
私は頷いた。
頷いて。
「結婚?」
「結婚」
私は思わずエルドリックを見る。
エルドリックは盛大に顔をしかめた。
「なぜ俺を見る」
「違うの?」
「違う」
即答だった。
セシリアも吹き出している。
「何でそこで殿下が出てくるのよ」
「だって!」
だって。
今までずっと。
ずっとお似合いだと思っていたのに。
何か。
何かがおかしい。
「誰と……?」
「神官のレオンよ」
「誰!?」
「誰って」
セシリアが困ったように笑った。
「彼も討伐隊にいたの」
そう言って。
セシリアは少しだけ頬を染めた。
「昔から仲良くしてもらっていて……それで」
あ。
今の顔。
私は知っている。
恋する女の子の顔だ。
レオンのことを話すセシリアは。
今まで見たことがないくらい綺麗で。
そうか。
その顔は。
レオンだけが。
セシリアにその顔をさせることができたのは、レオンだけだったのだ。
レオン。
いや、ほんと誰。
「全然、知らなかった……」
「言ってないもの」
言って!?
「卒業後に式を挙げる予定なの」
さらっと爆弾を投げないで欲しい。
私の頭はまだレオンを消化しきれてないんだから。
「じゃあ殿下は……って聞くまでもないか」
「聞けよ」
だって王太子だし。
聖女。
王太子。
それぞれの道があるのだ。
そして。
「ヴェロニカは?」
セシリアが聞いた。
「私?」
「うん」
私は少しだけ考える。
「え、このまま公爵令嬢」
二人が黙った。
なぜ。
カタン。
向かいの椅子が動いた。
気付けばエルドリックがすぐ隣に座っている。
なぜ。
「お前、卒業式のドレスは決まったのか」
「ドレス?」
唐突だが、そうだ。
卒業式用に新調しようと思ったのだ。
なのに。
「お父様がもう決まってるから必要ないって」
私が答えると。
エルドリックがぴたりと動きを止めた。
「……そうか」
小さく呟く。
「アシュフォード公爵が」
どこか安心したような顔だった。
「殿下?」
「いや」
エルドリックは僅かに口元を緩めた。
「それでいい」
そう言って。
ふいに私の髪へ手を伸ばした。
「え」
指先が一房を掬う。
近い。
近い近い近い。
何してるのこの人。
「それで、いいんだ」
何が?
向かいではセシリアがにこにこしていた。
やめて。
誰か説明して。
その日の帰り道。
馬車に揺られながら、私はぼんやり窓の外を眺めていた。
セシリアが結婚する。
それも。
相手はエルドリックではなかった。
考えてみれば当たり前だった。
当たり前だったのに。
私は勝手に決めつけていた。
聖女だから。
勇者だから。
転生者の私には、お馴染みの設定で。
二人は結ばれるものだと。
きっとそうなのだと。
でも。
現実の二人は違った。
セシリアにはセシリアの人生があって。
エルドリックにはエルドリックの人生がある。
それは私が勝手に考えた配役なんかでは決まらない。
そういえば。
私はずっと同じことばかりしていた気がする。
誰が何のポジションなのか。
そればかり考えていた。
前世の物語みたいに。
ジャンル分けして。
意味を。
私が転生者である意味を、探して。
けれど。
そんなものは最初からなかったのかもしれない。
セシリアは聖女だから笑うのではない。
エルドリックは勇者だから戦ったのではない。
ただ。
セシリアだから笑って。
エルドリックだから戦った。
それだけ。
それならば私も。
公爵令嬢だからとか。
転生者だからとか。
そんなものではなく。
ただ、ヴェロニカとして。
ヴェロニカ・アシュフォードとして、生きていただけだ。
♢
卒業式当日。
エスコートは緊張の面持ちを隠せない弟のバスティアン。
そして。
私が纏うのは。
澄んだ海を思わせるような青色のドレス。
今朝早く、我が家に届けられたものだった。
お父様が「当日なんて聞いてない、遅すぎる」っておっしゃる横で、お母様は同時に届いたジュエリーボックスを開けて。
「あらまあ」
にまにまと微笑んでらした。
そこには眩しく輝く純金の装身具たち。
精巧な細工の中心にはすべて、陽光を閉じ込めたような黄金の宝石が煌めいていた。
鬼の形相のモニカにメイクを施され、髪を結い上げてもらったころ。
姿見に映る自分の姿を見て、私は激しい動悸に襲われた。
このドレスの青は。
エルドリックの瞳の色だ。
「え」
では。
この黄金は。
視線が宝石へ落ちる。
陽光を宿したような金色。
見慣れた色だった。
「え」
エルドリックの髪だ。
いや待て。
待ってほしい。
つまりこれは。
「え?」
誰の趣味?
お父様?
だから私は今。
バスティアンの横を歩きながら、内心そわそわしている。
これ絶対お父様、気付いてないよね?
気付いてたら止めるよね?
お父様も耄碌したものである。
そろそろ引退近いんじゃない?
「姉さん、顔が悪いよ」
おい、弟よ。
その辛辣さは誰譲りだ。
「ほら。もうすぐ姉さんの出番」
壇上ではエルドリックが王太子としての挨拶を終えるところだった。
そうだ。
次は卒業生代表の答辞。
耄碌父の不敬については一旦忘れて。
やり遂げなければ。
そう思って壇上を見ると、エルドリックと目が合った。
やばい。
気付かれたか?
私は全身を指し示しながら、口でパクパクと「ご、め、ん」と謝った。
私のせいではないんだけれど。
耄碌父のためだ。
すると。
挨拶を終えたエルドリックが、こちらへずんずん歩いてくる。
やばい。
怒られるかもしれない。
まさかこの場で剥ぎ取るなんてしないよね?
私の目の前まで来たエルドリックに思わず瞳をぎゅっと閉じる。
「ヴェロニカ」
あれ?
怒ってない?
そろりと目を開けると、蕩けるような表情のエルドリックがいた。
「主席殿の挨拶だ」
バスティアンに添えていた手をそっと取られる。
あ、エスコート?
でも、王太子ってそんな役割あったっけ。
一緒に壇上へ向かいながら。
エルドリックが耳元で囁いた。
「よく似合っている」
その声が妙に甘くて。
心臓が跳ねた。
「……そう?」
「ああ」
迷いなく返ってくる。
「誰よりもだ」
鼓膜がじんじんと痺れる気がする。
この人、こんなこと言う人だった?
動揺の中でも答辞は無事に終わらせる。
エスコートだけだと思っていたエルドリックが、ずっと隣にいたことだけ解せなかった。
なんで?
卒業式は滞りなく進み、友人とも別れを惜しんだ。
セシリアは大勢に囲まれていたので軽く手を振っておいた。
近いうちに遊びに来てくれるだろうし。
あとは自由参加のダンスパーティーだけ。
するとバスティアンが「僕は帰るよ」と言い出した。
私もちょうど、入学したばかりの弟に付き合わせるのは申し訳ないと思っていた所だった。
「じゃあ私も一緒に帰るわ」
「え! 姉さんは残るんだよ」
「なんで! ひとりでなんて残らないわよ。エスコートが——」
「ここにいる」
降ってきたのは聞き慣れた声。
エルドリックだった。
「バスティアン、世話になった」
「いえ。あの……姉を、よろしくお願いします」
バスティアンが深く一礼した。
「ああ」
エルドリックがそう言うと、バスティアンは両親とともに帰ってしまった。
「殿下?」
「なんだ」
「そんなにダンスしたかったの?」
エルドリックが頭を抱えている。
違うのか。
「……そうだ」
何だよ。
合ってんのかい。
「珍しいね? 今までずっと、夜会でダンス嫌がってたじゃない」
「今日は特別だからな」
エルドリックはそう言うと、私の手を恭しく取ってフロアの中心へと移動した。
エルドリックとのダンスは楽しかった。
踊るのは得意な方ではないが、彼のエスコートのおかげでなかなか上手に見えているのではないだろうか。
距離の近さにはまだ慣れないけれど。
ダンスってこんなに密着するものだっけ?
「気付いているか?」
不意にエルドリックが口を開く。
「何を?」
「俺が自分からダンスに誘ったのは、今日が初めてだ」
ん?
どういうことだ。
「お前は今、周りからどう見られていると思う?」
周りから……?
王太子が初めてダンスに誘った。
相手は。
全身エルドリック色の女。
ん?
私たち、何曲踊った?
今、三曲目か。
ん?
「で、殿下!」
「何だ」
「わ、私! 殿下の婚約者に思われちゃう!」
「だな」
「そんな暢気に返事しないで!」
「ヴェロニカ」
「なに」
「好きだ」
「え」
「もうずっと昔から」
時間が止まる。
「お前のことが好きだ」
音楽が遠くなる。
「そのドレスは俺が用意した」
「え」
「聖女が誕生し、討伐が終わるまでは身動きが取れなくて、公爵には随分無理を通してもらっていた」
「え」
「お前の婚約話を潰したり」
「え!」
「お前は、全然気付いていなかっただろうが」
エルドリックが呆れたように笑う。
「お前以外は全員知っていた」
「ええ!?」
頭はもう真っ白だ。
「なあ」
聞き慣れているはずのエルドリックの声が、ひどく艶めかしく響く。
「お前のこの手に、髪に、頬に。ずっと、触れたいと思っていた」
エルドリックの指が、私の手をするりと撫でる。
びくりと肩が揺れる。
心臓がうるさい。
エルドリックに聞こえてしまう。
もうこれ以上踊れない。
そう思った瞬間。
曲が終わった。
気付いたらエルドリックに連れられてバルコニーへ出ていた。
いつのまに。
記憶の処理が追いつかない。
あ、夜風が気持ちいい。
「ヴェロニカ」
何か聞こえる。
「おい」
何だか心地いい声。
「おい、現実逃避するな」
ぐいっと両手で頬を包まれた。
「返事は?」
「無理ですぅ」
「何でだよ」
「だって……」
徐々に顔が熱くなるのが分かる。
だって。
エルドリックが私を好き?
「だって。そんなの、知らなかった……」
勝手に涙が出そうになるのを堪える。
エルドリックの親指が、私の目尻を拭った。
そして。
「ようやく、俺を意識したな」
そう言って、嬉しそうに笑った。
そのあとのことはあまり覚えていない。
エルドリックに馬車で送ってもらって、着替えたら泥のように寝た。
翌朝モニカに叩き起こされるまで一度も目覚めずに。
目覚めてから、昨日のことは夢だったのかもと思おうとしたが、エルドリックから送られてくる贈り物や花束で、現実なんだと引き戻された。
お父様からは、これまでのエルドリックとの経緯を聞きたいかどうか尋ねられたけれど。
断った。
まずは自分の気持ちと向き合いたいと思ったからだ。
夜。
湯船に浸かって考える。
ずっと。
何かから目を逸らしてきた気がする。
転生者だから。
そう思い込んで。
けれど。
帰還の日に息を呑んだことも。
セシリアと並ぶエルドリックを見て胸が痛んだことも。
二年間。
会えないことが寂しかったことも。
全部。
私の心の声だった。
前世を思い出してから随分経った。
あのとき小さかった私の手は、もうない。
♢
しばらくして、セシリアが遊びにきた。
結婚式の準備で大忙しの彼女だったが、卒業式でのことを聞いてもらいたかった。
「殿下のこと? 知ってたわよ?」
「い、いつから」
「いつって……五歳? もっと前かしら」
「え、そんな前から?」
「あなた元々変だったけど、七歳くらいかしら? 急に私たちのこと妙な目で見てて。殿下も困惑してたのよ」
あ。
前世の記憶を思い出したころだ。
てか今、元々変って言った?
「だからゆっくり考えればいいのよ。多少待たせても、あの人なら誤差の範囲でしょ」
セシリアのエルドリックへの対応が雑過ぎる。
「私ずっと、殿下が私を選ぶことなんてないと思ってた」
「そうなの? 私はずっと、あなたたちのことお似合いだって思っていたわ」
お似合い。
エルドリックと私が。
セシリアの目から見たらそう見えていたのか。
私が二人をそう思っていたように。
「それにヴェロニカ。あなた殿下の顔、大好きよね?」
顔?
エルドリックの顔を思い出す。
不機嫌な顔。
呆れた顔。
勇者に任命されたときの、凛とした顔。
微笑んだ顔。
私を見つめる蕩けそうな顔。
顔がカッと熱くなる。
鏡を見なくても分かる。
今、絶対顔が赤くなってる。
「ふふ。もう答えは、決まってるみたい」
セシリアが私の大好きな顔で笑った。
可愛くて、大事な親友。
結婚式には必ず出席すると約束して別れた。
そして今日。
忙しいエルドリックの久しぶりの休日に、観劇と食事に誘われた。
卒業式以来、約ひと月ぶりに顔を合わせる。
でも。
久しぶりという気はしない。
贈り物や花束は毎日のように送ってくれるし、手紙も頻繁に届くからだ。
一日どのように過ごしていたかとか。
読んだ本の話とか。
私の、顔が見たいとか。
だから私も丁寧に返事を書く。
一日どのように過ごしていたかとか。
読んだ本の話とか。
次に会えるのを、楽しみにしてるとか。
だから。
今日、会ったら。
返事をしようと思う。
きっと、これ以上待ってもらう意味はないから。
前にも見た鬼の形相で、私の髪を編み込んでいるモニカに声を掛ける。
「ねぇモニカ。このカフス、ほんとに変じゃない?」
「はい。お嬢様」
「殿下、喜んでくれるかしら」
「はい。お嬢様」
「ねえモニカあ!」
「大丈夫です」
モニカが私の手元に置いてある小箱を見ながら言い切った。
「お嬢様の美しい榛色の瞳と同じ色の宝石ですよ? 王太子殿下なら肌身離さず、きっと寝るときまで身に付けますよ」
そんなばかな。
やばい。
想像したら笑ってしまう。
モニカが表情を緩める。
「お美しいですよ、お嬢様。どうか、楽しんで」
そっと背中に添えられたモニカの手の温かさが、私の気持ちを前に向かせる。
屋敷の呼び鈴が鳴った。
約束の時間より少し早いけれど。
少しでも、早く会いたいと思ってくれているのだとしたら。
そうだとしたら、嬉しい。
私も。
同じ気持ちだから。
小箱を手に、足早に自室を出た。
前世を思い出したときから。
この世界は何かの物語だと思っていた。
テンプレに当てはめて。
ジャンル分けして。
でも今はそうじゃないと分かる。
物語は誰しも持っていて。
私が知っていても、知らなくても、変わらない。
始まって、終わって。
また始まって。
終わったと思っていたものも、ずっと続きがあって。
生きてる限り。
いや。
例えこの世からいなくなっても。
私たちの物語は形を変えながら、いつまでも終わることなく続いていくのかもしれない。
私はヴェロニカ・アシュフォード。
公爵令嬢で転生者。
聖女や勇者と一緒に、魔王討伐には行ってないけれど。
エンディングの続きを、願わくばあなたと。
最後までお付き合いいただきありがとうございました。
ヴェロニカの行く末を、見守っていただけたら幸いです。




