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変えなければならない

 昼時の校内は教室と食堂と校庭脇以外のところに人がいない。教室から微かに漏れる声を横耳に陽に熱された廊下を歩く。日が差し込まない廊下は陰が深く、クリーム色の柔らかい感覚を抹消していた。

 桜先生はいつも三階にある美術室にいる。自他共に認めるヘビースモーカーでたばこを吸うにはちょうどいいそうだ。

 

 美術室に行くために上る階段の踊り場には一つの絵がある。いつもここを通るときぼくはこの絵に目を奪われる。額縁に飾られた大きな水彩画。うちの高校の美術部は卒業に向けて各々作品を製作しなければいけない。これもその内の一つだろう。

 夕暮れの空に影となった山々をバックに一本のあぜ道が田畑の間に延びている。上にいくにつれて紺碧色になっていく空の様は郷愁を誘った。濃淡がはっきりしていて所々地の白色が残っているが、それによって朧気な感じがして儚さが増している。

 この絵はこれだけではない。一番の特徴は天に延びる幾筋もの蛍光色の線だ。半透明に薄く延びたそれらは全体的に黄緑色をしており靡くように描かれている。現実には絶対にあり得ない描写をこうも生き生きと描き上げているのは見ていて清々しいものだ。


『記憶』


 とてもシンプルな題をつけた作者は何を思ってこの絵を描き上げたのであろう。自分のうちに秘めているものをさらけ出すことはとても怖いことだ。なのに、まるで自分の一部を切り出したかのようにこれを見よといわんばかりに光を放つ。


 こんなところにあるべきじゃない。もっとふさわしい、光の当たるどこかに移動させればいいのにと思う。


 何分ぐらい立ち尽くしていただろう、チャイムが鳴ったことで我に返る。掃除が始まる。急いで用事を終わらそう。そう思い一気に階段を駆け上がる。

 美術室の扉を開くと案の定、先生は窓枠にもたれかかり外を眺めている。扇風機は回ってはいるが、それでも暑い。そんななか先生はいつも通り白衣を着ている。そのせいで知らない人からは科学の担当だと思われることが多々あるそうだ。


 口の先から登る煙が夏風に解かれるように流れていく。

「遅かったな」


 外を向いた姿勢のまま先生は右手を小さく上げた。なんせ煙草を咥えたまま言うものだからうまく言葉が言えていない。ぼくは先生のいる窓の近くに椅子を置き腰掛ける。

 下から見上げる画角でここまで絵になる人も珍しい。髭のそり残しやぼさぼさの頭までもセットされた役者のように様になっている。昔の西部映画でカウボーイハットをかぶっていそうだ。あとは曇天であればなおいい。

 まじまじと見ていると先生は懐からたばこのパッケージを取り出した。くしゃくしゃになったパッケージは手にフィットするような形であった。


「お、いける口か」


 視線に気づいたのか先生はニヤニヤしながら萎れたたばこを取り出す。ぼくは右手を差し出し、一本もらうとそのまま思いっきり握りつぶした。


「おいおい勘弁してくれよ、ただでさえ喫煙者は肩身が狭いし体調も悪いんだ。もう少しいたわってくれ」


 しゃがれた声でおどけたように笑う。名残惜しそうにたばこをしまい、吸い終えた一本を珈琲缶の中に放り込んだ。


 たばこの匂いはあまり好きではない。家で吸う人がいないからかもしれないが、なんとなく眉間にしわが寄る。それでも先生が吸う分にはかっこいいと思えるし否定しようとは思わない。


「今日呼ばれたのはなんとなく分かるだろう、とりあえずおめでとうだな。いい絵だったよ、さすがだ。大きなコンクールじゃないがまぁ頑張ってくれ」


 目を見て正面切って褒められるとどんな顔をしていいのか分からなくなる。扇風機が回る音がぼくをはやし立てるように教室の空気をかき混ぜる。ぼくの頭の中もマーブルみたいにいろいろな考えや感情が交錯する。硬いままの表情を見て先生はほくそ笑む。


「褒められてそんな顔するやつがいるかよ。お世辞だろうと本心だろうと、こういうときは笑っとくもんなんだ。嘘は騙された方が幸せなこともある」


 この世のカラクリを享受するかのように先生は言葉を吐いた。


 違うんです先生。ぼくのこの感情はもっと深くの自戒の念にある。ぼくの描く絵がこんなものだなんて思われたくなかった。他人の目を気にした結果、本当に見せたい相手には違ったぼくが写る。先生はぼくの本当の絵を知らない。当然のことなのに無性に胸が締め付けられた。できることならこんな泣き言みたいなことを誰かに聞いてほしかった。でもきっと、口がきけたところでぼくは誰にもこのことを打ち明けはしないだろう。言い訳が自尊心を喰って肥大化する。


 頭を下げ先生の顔を見ないように教室を出る。だんだんと早くなる歩速にあわせるように、心臓がうるさくなる。広いところで、外で息が吸いたかった。掃除をしている学生たちの間を縫って人の目のつかないところへ足を運ぶ。焼却炉の前に来たとき、ついに息が切れた。校舎の壁により掛かり呼吸を整える。色の黒い夏陰の合間から燦々と陽が注がれる。口を大きく開け酸素を肺に詰める。吸っても吸ってもいくら吸い込んでも呼吸が整わない。首筋を走る汗はついには乾いて冷たく皮膚に張り付く。


 壁の向こうから声がした。高く鼻につく声、どこか聞いたことがある感じがした。


「立花知ってる?、うちのクラスの」


その言葉に脈打っていた心臓が握られるように痛んだ。そうだ、この声はクラスで省かれた女子の声だ。こういう話は大抵いい内容ではない。気が滅入っている状態で友だちが陰口をたたかれるのを聞きたくなかった。耳を塞げばいいだけの話だ。陰愚痴なんて誰しもが言われる。それを分かっていてもひどく感情を乱されるように思えた。


 だけどなぜだろう、ぼくは耳を澄まし、次に続く言葉に注意していた。


「あいつってさ空気読めなくて嫌われてんの気づいていないのかな、いっつもゲラゲラ笑ってさ、バカみたい。ああいうの見ていて腹が立つんだよね、こっちはいろんなことで悩んでんのに脳天気に生きてて。あれは親が駄目な部類だな、消えてくんないかな、世界から」


 ずんと体が重くなる。こんなやつの言葉を真に受けることが馬鹿馬鹿しいことも分かっている。

でもきっとこれも言い訳だ。


 友だちが馬鹿にされているのに、ぼくはそれを聞いているのに黙ったままだ。

 世界が鈍色になっていく。食い込む親指が新しく傷跡を作る。どこからともなく蝉の声がする。今年初めて聞いた引きちぎれるような鳴き声。ただ一人、その鳴き声はバカみたいに夏空の下で空回りしていた。


 何か変えるべきなのだ。

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