空白はなにかが引かれて生まれる
昨日の話のせいであろうか、通学途中の電車の中で懐かしい夢を見た。
ぼくは絵を描いていた。柔らかい春の陽光に顔を浸し、はためくレースのカーテンが肌をかすめる。ベランダの戸を開け部屋から空までが繋がったようだった。
町全体が夏に備えて、吹く風には少しばかりの甘い香りと日だまりの匂いがした。
「雲を描こう」
そう言う少女は空をのぞき込むように見上げている。ぼくも同じように見上げると薄く伸びた雲が磨り硝子のように空をぼやかして流れていた。夏のどっしりとした入道雲とは違い、空を這うようにゆっくりと漂う。彼女は雲の形を書き写す。ぼくは周りの風景を書き、空白を残す。
「すごい、本当に雲みたい」
「雲は空の空白だからね。空の白って書くでしょ」
「ほんとだ」
「空白はなにかが引かれて生まれる場所なんだ。空から色が落ちて雲ができたみたいに」
彼女は感心したように絵をのぞき込む。春の萌芽が風に乗り、優しく揺れる目下の風景は温かな雰囲気を醸し出している。彼女の笑顔もそれと同じくらい柔らかいものだった。
徐々に世界が水彩画のように朧気になっていく。輪郭がぼやけ、濃淡のついた色だけの世界、ぼくは最後に自分の描いた絵を見る。下手くそだが、幻想的な絵だった。
これはぼくが絵を好きになったときのことだ。
雑踏と終点を知らせる安っぽいミュージックでぼくは目を覚ました。半分しか開かない目で現実を受け入れる。定期を駅員に見せて改札をくぐり、校舎へと歩き出す。
一車線の狭い裏道に入り陰を選んで進む。道に面した定食屋には猫よけのペットボトルと猫がいる。入り口の引き戸から店主が顔を出し、餌か何かを無愛想においてまた店内に消えていく。一連の動作がプログラムされたようにいつもこなされていく。
黒くすすけた校舎が顔を出す。むき出しのコンクリートが拒絶するかのように角を尖らせている。廊下から教室へ入ると気圧が変わったみたいに頭が締め付けられる。机の間を縫って自分の席に着く。機械的に授業をこなす。あっという間に昼が来る。昼食中、相変わらず立花の話は絶好調だった。
「なーに話してんの」
カルピスソーダを買って帰ってきた木梨椿が机を動かしながら聞いてきた。いつもは一人で食べている椿だが、どういった風の吹き回しだろうか。
視線で立花に訴えかける。彼はこちらの視線に気がつくと自慢げに笑みを浮かべた。
「誘った」
キラリと光る瞳からは誇らしさと喜びと、若干の恥ずかしさがうかがえた。昨日の話の内容といい、大体のことは察しがついていたが、立花は彼女が好きなのだろう。というのも、あいつは教室の入り口でたむろしたり、校則を破ってまで化粧する女子を毛嫌いしている。椿は俗に言う模範生だ。化粧もすることなく、制服を着崩すこともしない。髪も肩に掛からないギリギリのラインで整えている。加えて彼女は基本一人でいることが多い。混じれないと言うより混ざらない、典型的な女子高校生像とは違った空気を帯びている。
「立花君のことだからくだらないことか、突飛なことに違いないけど気になるな。ねえ双海君、さっきしていた話は聞く価値ある」
丸い瞳をいたずらに細めこちらを伺う。今までしっかりと顔を見ることはなかったが、なるほどこれが四位かと感心してしまう。
彼女の質問に嘘をつくわけにはいかない。ぼくは首を二回横に振る。
「おいおい、俺の話は高尚だぜ。心して拝聴していただきたいね」
天を仰ぎ、おどけた調子の立花はまんざらでもない顔をしていた。椿も白い歯を見せて笑った。




