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「ただいま」
家に帰ってから声が出る。しかし、そこには会話が存在しない。
居間を覗くと母さんが机に伏せて眠っていた。横には仕事で使う資料の束が散乱していた。古典的な白いエプロンを着たまま、老眼鏡を左手に持っている。いつもこの格好だ。
台所からは濃いしょうゆの香りが漂っていた。少し焦げ臭い。
母さんはどこか調子がおかしい。明確に異常な点はない。しかし、立ち振る舞いがたまにギクシャクしていたり、料理するおかずの量が多すぎたりと些細なことが引っかかる。その小さなズレがいつか決定的な溝に変わってしまうのではないかと不安になる。更年期障害だと本人は言っていたが、ならなんで薬の類いが家に一切ないのだろう。
二人しかいない家の中、物憂げな雰囲気がいつも充満している。人の生きている気配とか、その家庭内に紡がれた物語とかそういった温かみのある空気が一切ない。家族写真も個人のマグカップも幼稚園や小学校で描いたであろう絵だとかアルバムとかおもちゃとか、全てが不足している。
そのあるべき姿を勝手に想像して、無性に苛立ってしまう。ぼくはこのなにかが欠けた空間を避けるため、二階の自室に駆け上がる。暗闇に吸い込まれるように行き着いた先には、二つ扉がある。手前にあるのは物置用で、奥にあるのが自室のだ。なぜ物置を奥にしなかったのかはいつも疑問に思う。そんなこともまた、苛立ちを増幅させる。
別に何をするでもないのに机に向かいノートを開ける。隅の方に見知った花の落書きを描きつらねる。
夜と同化した部屋の中、月明かりがカーテン下に零れている。そのことに気がついたときには帰宅してから優に一時間は経過していた。
一階に降りると母さんは台所で夕飯の支度をしていた。
「先にお風呂にはいりな」
母さんはやけに上機嫌であった。菜箸を二回合わせて音を鳴らす。
夕飯は肉じゃがだ。これで何回目であろう。そのことを言ったとしても母さんはまた曖昧な笑みを浮かべ「ごめんね」と言うのだろう。喧嘩も談笑も起きない。その分、不健全な空間。それならいっそのこと喧嘩でもした方がいいのではとも思う。
湯船の中で思考する。ここ数ヶ月、頭の中に霧がかかったようで気分が晴れない。それらの正体が五月病ではない事は分かっている。
お風呂にはいるとそういったものの正体の輪郭が掴めるような気がする。いつも同じことを繰り返し考える。頭の隅っこから滲み出るある可能性について。
ぼくには憧れの人がいた。
なぜ忘れていたのか不思議なほど大切な人、と言ってしまえば聞こえはいいが、ぼくはその人の容姿について、具に思い出せない。何がきっかけになったのかは分からないがふとそんな人がいると思い出した。
最近になってぼくは彼女との記憶をたくさん再生した。そしてそのどれもがガラス玉のように輝いている。小粒だが様々な角度からそれを眺める。
彼女はぼくが会話をできる数少ない人間だった。
彼女は特別な言葉を持っていた。荒唐無稽なことであったとしても本当ではないかと信じてしまうような不思議な力。
彼女はそのことに圧倒的な自信を抱いていた。
しかし、鮮明な記憶は小学三年生から卒業までの約四年間。そこからは断片的なものばかりだ。ただ、雰囲気や所作、語りかけてくれた言葉は確かに思い出せる。
しかし彼女のことを考えれば考えるほど不思議なことが多く浮かび上がった。
彼女の名前に顔、さらには遊びに行っていた家の場所も分からない。卒業アルバムを見られれば解決すると思い中学校のものに目を通した。しかしそれには載っていなかった。つまりこれは彼女がいなかったことを示しているのとほとんど同義であった。
引っ越しをしたとしてもそれほど大切な相手であるのならば連絡先の一つや二つ手にしているはずだ。それらの類いを全て母さんが隠しているというのなら、そこにはそれ相応の理由があるはずなのである。それらの推察も全てがある仮説で片付いてしまう。
それは彼女が存在しないのかもしれないということだ。
小学生の頃のぼくは孤独のあまり、友だちを求めていた。そしてその少女はぼくが作り上げた人物なのかもしれない。一見馬鹿馬鹿しいようなものだがあながち間違いではないかもしれない。純真な子供が傷を癒やすのにはもってこいの妄想だ。実際、真実だと強く思い込むことで、自分自身を欺すことは可能であるらしい。小学生、中学生と孤独街道をひた走った原因はこれだったのかもしれない。
そう思うと恥ずかしくてしかたなかった。だから忘れようとした。それでも彼女の存在は消えなかった。それどころか頭に彼女が浮かぶ頻度は日に日に増えていく。
煩悶とした気持ちをどうにかしたくて湯に潜る。鼻から出る気泡が鼻先から額にかけて撫でるような上昇する。くすぐったい。記憶も泡みたいであればいいのに。そしたらこんなにも悩まされることはない。
風呂から上がり食卓に着く。いつも通り量が多い。黙々と箸をすすめ食器を片付けるまで一言も会話はしなかった。残ったおかずはきっと明日も出てくる。なにか足りない家庭。それが日常だ。
なんでもない日常にカンマを打つ。眠りにつくまでに時間はかからなかった。
なんだか懐かしい香りがした。それは鼻の奥で花開くように広がり、ついにはそれに付随した憧憬を頭の中で作り出す。
「おはよう」
気が付けば、ぼくの目前には一人の女性がたっていた。




