表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
10/12

垂れ下がる細い糸

 目の前にいるのはサキだ、見間違いなんかじゃない。夢の中でいつも見ていた彼女が何でこっちにいるんだ。


「なーに寝ぼけてんの、それとも遠回しに嫌み言ってるとするなら0点、センスなし」


「本気だよ、真面目に答えろ」


「私の家だから」


 にべもなく口をきくサキになんと返せばいいのだろう。本人にはふざけているような素振りはなく、無防備な寝ぼけ顔が不気味に見えた。


 雀の鳴き声がよく聞こえる穏やかな朝だが、確実に何かが変化している。


 洗面所で顔を洗いながら考える。頭に浮かんだのは二つの可能性。

 一つ目は、まだここは夢の中ということ。サキと会っていたのはいつも夢の中で当然この説が一番濃厚だ。しかし、肌に感じる水温や手に掬われた水の反射は妙に現実的で夢だとは言い切れない。


 もう一つはサキの言ったとおり珠月をこの世界に作り上げた。そして自己顕示欲を抑えきれずついには自分まで生成してしまったこと。こちらの仮説は穴が多い。

 サキが言うにはぼくの記憶の情報から珠月を作り上げると言っていた。その理屈でいるならサキの記憶も必要になってしまう。しかし、現実においてぼくはサキとの面識はないし、そもそもサキはこちらの世界にいない。もちろん彼女が全て行うことだ、好きなようにできるのかもしれない。

 いくら考えても仕方がない、そう思いってもいらだちが込み上がってきた。分からないことはなんて恐ろしいんだ。衝動に任せて顔に水をかぶせる。何回も、何回も、まとわりつく得体の知れないものを拭い落とすように。最近になって悩みの種が多くなっている気がする。きっとこのいらだちも、それらのせいだ。


 とりあえず、様子を見ることが最善の手だ。方針がまとまれば幾分かは気持ちに余裕が生まれることを知っている。だから、誤魔化すように自分を納得させる。

 制服に着替えるとき、手が震えているのに気がついた。自分のことなのに全く気がつかなかったがぼくはこの世界に本当に珠月がいるのか怯えているらしい。いや、サキに嘘をつかれていないか、こちらの方が怖い。

 食卓に着くとサキはもうすでに朝食にありついていた。向かい側の席、母さんの隣に人がいるのは新鮮で落ち着かない。途中、サキはしきりに口をもごもごさせていた。どうしたのかと聞くと「ほうれんそう」と聞き取れなくもない言葉を発して席を外した。ホウレンソウのごま和えがある、それが歯の隙間に挟まったのだろう。それはそうと、ホウレンソウのごま和えなど今まで朝ご飯のレパートリーとして登場した記憶がない。やはり、些細な変化が起きているのかもしれない。小さな、希望でないものでも期待したくなる。


「そういえばさー、」

 

 歯磨きをしながら戻ってきたサキが聞いてくる。


「なんで実はさっきから『サキ』って呼び捨てで呼んでくるのさ。私はあんたの姉だぞ、年上だぞ、もっと敬っていつもみたいに姉ちゃんと呼べ」

 

 人はあきれると本当に口がふさがらなくなる。今がまさにそうだ。サキは何を言っているんだ。なんであいつが姉になってるんだ。それに何でサキはそれを日常みたいに言っているんだ。夢の中のサキとこっちのサキは何かが違っている。


「そうよ、お姉ちゃんに対して呼び捨てなんてするもんじゃないわよ」


 母さんまで参戦してきた。


「それともあんた私の彼氏気取りか、そうだとしたら一千億年早いわ」


「歯磨きをしながらしゃべるな」


 そう追っ払うとサキは愉快そうにワハハハハーと声を上げて洗面所に引き返していく。

 

 年功序列万歳!


 バカな言葉が徐々に遠ざかっていく。何のことやら頭が追いつかない。口の中に放り込んだホウレンソウの味がしない、というより、それどころではない。

 想像だにしていなかったことのせいで気づけば電車の発車時刻二十分前だ。いまから自転車で駅まで飛ばしていっても間に合うかどうか分からない。それなのにまだ朝食が残っているのは、ほぼほぼ詰みに近い。この電車を逃せば次は一時間後、確定で遅刻になってしまう。

 とりあえず茶碗に盛られた白米をたいらげ、麦茶で一気に流し込む。戻ってきたサキはまた愉快げに話しかけてくる。


「なにそんな急いでんの、発車時刻までまだ三十分もあるじゃない。二十分までは余裕、本番は十五分前から」


「そんな分けないだろ、もう二十分前だ」


「ああ、思い出すだけで心躍る毎日だったわ。駆け上がったホームに電車がいるのか、そのことで階段では心臓がバクバクして、発車しかけていた電車を引き留めたときは勝負に勝ったような気分だった。その時の車掌さん、ありがとう」


 JRに迷惑をかけることがサキの高校時代と聞くと、どこかしっくりくる。横をすり抜けて洗面所に向かう。


 洗面所で歯を磨き寝癖を直す。水に濡れて重たげな前髪が視界を塞ぐ。鏡に映る自分はいつもみたいな顔をしていた。

 鞄を背負って裏庭に自転車を取りに行く。ストッパーを蹴り上げ、ペダルに片足を乗せ地面を蹴り進める。


「いってらっしゃーい」

遊園地の演者のように陽気な声が頭上を越えていった。日陰に停めていていたにも関わらずサドルは夏の日の温かみを蓄えていた。


 家の前の坂を、一発ペダルを蹴り飛ばして一気に下っていく。民家のブロック塀や生け垣、花壇から香る花の香りなど無意識のうちに記憶しているそれらはいつも通りで変化はぼくの家庭内だけであった。

橋を渡って、緩やかなカーブが近づいてくる。河川沿いのこの道を曲がれば視界は一気に山々の緑と田畑で埋め尽くされていく。スピードを落としてさしかかる。


 そのとき、小さな違和感が目についた。いつもは見ない赤い屋根の立派な一軒家だ。がたつく車輪とチェーンの巻き付く音が何かの予兆みたいに派手に鳴る。

 その家の前を通過するとき、一瞬だけ見える景色が変化した。視覚的ではなく感覚的な情景が克明に流れる。浅い夕焼けに浸った呆けた街に、夜の帳が薄手のベールのようにかかっている。ぼくは一人で赤い屋根の家へと向かう。珠月の家へと向かう。


 サキが記憶を使うといっていた意味がなんとなく分かった気がした。心に馴染むように違和感がなくなっていく。確かにあの家は珠月の家だ。あそこの二階からよく絵を描いていた。忘れていたものが覆い被さった皮を剥ぐようにはらりはらりと姿を見せていく。珠月は今もあの家の中にいるかもしれない。

門のところにかかった表札には「松浦」と固い文字で書かれていた。そこだけ空気が変わったように甘い香りがしたのは生け垣の上から覗いているクチナシのせいだろう。


 それからはいつもと変わらない景色だった。電信柱で視界が切れるたびにぼくの思考は振り出しに戻り、解こうとすると絡まる糸のように複雑さを増していった。


 気づけば涙が頬を伝っていた。懐かしいものを見て触発されたように静かに伝っていく。


 ぼくは本当になにかを忘れているのだろうか。肝心なことは栓をして、それでもあふれてきているものが涙というのかもしれない。零れた記憶にさえ、地面に落ちる程の重さがあるなら栓がとれてしまうとぼくはどうなるのだろうか。


 駅の駐輪所に自転車を駐める。サドルを持ち車体を上げ、ストッパーを下ろし鍵をかける。全ての動作に意識を費やさないとまた涙が出てしまう。


 駆け込んだ電車の中、大半は頭を垂れて眠っていた。同じように眠っていたかったが感情の荒ぶった頭ではそんな平穏を許してはくれなかった。


 学校でも授業は右から左へ流れるばかりだった。それに昨日のことのせいで立花にどんな顔を向ければいいのか分からなかった。勝手に罪悪感を抱いたのはぼくの方で、全てが自分に帰因する。なのに、彼の裏のない笑顔が痛く、目を見て話を聞くのがひどく不誠実に思えた。そんななかでも立花は一日喋り通した。


 帰りの電車は文庫本も読む気になれず、ただ人の減っていく様を見ていた。外が徐々に暗くなっていくのが朝思い出した記憶とリンクする。落ちついて思考する。確かこれは夏夜市のものだ。


 珠月の家に面するあの道をもう少し奥に行けばそこから階段が伸びていてそれは神社につながっている。一般的な神社よりもやや広いくらいの境内と、その麓の車道で八月の中旬あたりに簡易的な夏祭りが開かれる。花火も上がるには上がるが、規模が小さいため青春真っ盛りの中高生は隣町の夏祭りにいくことが多い。

 ぼくと珠月は二人で行くことはなく、自然と神社で合流することが多かった。それまでの時間をどう潰していたかは分からない。

 行きしに来た道をもう一度通る。例の家からは細やかな明かりが窓から確認できた。何か珠月の存在を示すものがないかと、気づけば自転車を道端に駐め、生け垣の周りを周回する。端から見れば不審極まりないが、そんなこと気にしている余裕はない。一秒でも早くこの頭と胸の内側をかき乱すモヤモヤとおさらばしたかった。


 少しの話し声でもいい、最小限の彼女のかけらであってもぼくは掬い取る自信があった。静かな時間が流れていく。聞こえてくるのは夏の虫たちの鳴き声と明瞭な自分の鼓動だけで、そのどちらもが音と認識されないほどに自然であった。


 生け垣に背を凭れ、空を見上げる。頭上のクチナシは綺麗に花を付け、次につなげる何かに思いをはせるように花弁は優雅な曲線を描いている。

 唐突に家を回り込むようにして足音が近づいてくるのに気がついた。一瞬の逡巡をおいて、ノミのように小さなぼくの心臓は、逃走することを選択した。ここで逃げてしまえばそれこそ不審者だ。あさってくらいには小学校や児童館で報告されるであろう。立ちこぎで坂を上る間、愉しくて仕方なかった。学校で抱いていた憂鬱なんて忘れて久しぶりに気持ちが高揚した。可能性ってやつに心から期待できた。


「ハハハハハーー」


 仰け反るようにして、笑い声が溢れてくる。こんなに愉快なのは生まれて初めてといってもいいかもしれない。どう転んでもぼくは不審者だ、徹底的にそうしてやる。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ