第35話 EDEN:残響する君の名
腹部からの血の染みがじわじわとシャツを汚していく。
激しい苦痛に倒れそうな全身を、強く支えられた。
「何を、やってる……!」
神崎のその声に、普段の冷静さはどこにもない。
(ここは確かに現実じゃない────だが例え仮想世界でも負ったダメージは本物だ!)
今までは奴が蒼真と同化して元の身体と全ての損傷を即時修復、回帰させていた。
何度地獄を味わっても蒼真が決して同意しないだろうある目的の為に。
蒼真の感情コードがなければ最終プログラムは作動しない。
故に、何度も生き地獄をさまよう羽目になったのだが────。
もうそれは神崎の手によって切り離されてしまっている。
つまり今現在蒼真が負ってしまった傷は────治す事が出来ない。
ここが現実ではないという絶対の確信があればまた話は別だが、蒼真は記憶を消去されている。
「……っ」
きつく嚙み締めた唇から血を滲ませながら、そっと蒼真を横たえた。
────瀕死の、重傷だ。
このままではあと、もう数分で失血性の死は免れないように、見える……。
蒼真の左手はきつく黒いナイフの柄を握ったまま離れない。
それどころか、未だ深く突き刺そうとする。
腹部に刺さったままの刃へと、神崎の手が伸びる。
躊躇うこともなく素手で、露出している刃の部分を掴んだ。
ざっくりと掌が裂けて、赤い血が流れる。
それでも、力を緩めない。
「なんで、お前は……!」
低く唸るように言いながら、刃を引き抜こうとする。
制御を失った感情のままに、白く端正な顔は悲痛に歪んでいる。
掠れきった声には怒りと哀しみと、理解できない何かが混じっていた。
「……俺が今まで……、っだれの、ために……!」
血を吐くような嘆きは、誰にも届かない。
蒼真は息を乱しながら、かすかに笑った。
「……良かっ、た」
言葉は途切れ途切れだった。
「死ぬの……、お前じゃ……なくて……」
「…………ッ!!」
神崎の動きが、止まる。
きつく、刃を握りしめた。
ごつ、と骨まで達するほど深く刃が沈んだ掌から、どっと血が溢れた。
神崎の手から、蒼真の傷へと滴る。
その大量の血が、触れた瞬間────。
蒼真の赤かった視界が、白く反転する。
全ての輪郭が溶け、音が消える。
世界が、希薄になる。
がしゃんと言う音と共に、目の前にある全てが壊れ、崩れていく。
「……っ」
蒼真は目を見開いた。
流れ込んでくる、知らないはずの記憶。
ガラスで出来た壁ごしに見える青空、白く清潔な部屋。
整然と並ぶ演算処理装置。
無数のケーブルにモニター。
瞬く規則的な光。
機械の低い駆動音だけが、一定のリズムで響いている。
ひんやりと冷たい空気。
時間の感覚が曖昧になるほど、整いすぎた空間。
その中心に、自分がいた。
今の蒼真より、五歳ほど年上に見える。
椅子に座り、手元のコンソールを叩いている。
指は迷わない。
考えるよりも先に動いているようだ。
「……あと少し、だな」
口から出た言葉に、違和感を覚える。
“何が”?
視線を落とす。
モニターに表示されていたのは、ただ一つの名前。
EDEN────
その下に、無機質な文字列。
『起動待機中……』
自動音声のアナウンスが聞こえた瞬間。
胸の奥が、ざわついた。
(……何かの、プログラム────俺が、作ってるのか?)
見ても全く理解できないが、“間違いない”と分かってしまう。
「蒼真」
背後から、声。
振り返る。
そこにいたのは────少年だった。
細い身体、白い肌に整いすぎた造作。
まだ成長途中の、未完成な危うさがあった。
黒髪が無造作に額に落ちて、目元に影を作っている。
その奥の瞳だけが、異様に強い。
年齢は、せいぜい十二、三歳。
だがその目は、大人よりもずっと冷静で、鋭かった。
「……蓮?」
名前が、自然に出る。
少年は、わずかに眉をひそめた。
「また徹夜か」
声は低い。
年相応の高さはあるのに、言い方が妙に落ち着いている。
「顔、死んでるぞ」
「……そんなにひどいか?」
軽く返す。
だが、蓮は納得しない。
無言で近づいてくる。
足音は小さいのに、妙に存在感がある。
「無理してる時の顔だ。……それに、薬臭い。また、栄養剤しか食ってないんだろ」
すぐ目の前で、止まる。
そのまま、ずいっと顔を近づけてきた。
「家に、帰ってこい。さっさと寝ろ」
自分の半分しか生きていない子供に、短く言い切られる。
「またぶっ倒れるぞ」
「大げさだって」
笑って誤魔化そうとする。
だが、その時素早く、手首を掴まれた。
細い腕なのに、逃がさない力。
「ほら、行くぞ」
その今より少しだけ高い体温だけが、やけに鮮明だった。




