第130話 私立黎明統合学院/2055/真実の欠片と沈黙
まだ夜明けにも満たない薄青い時間、高層集合住宅の最上階は静寂に包まれていた。
蓮はまるで猫のように足音を殺しながら廊下を歩き、主寝室の扉をそっと開ける。
柔らかな朝靄のような光がカーテン越しに差し込み、穏やかな寝息だけが部屋を満たしていた。
広いベッドでは蒼真が規則正しい呼吸を繰り返している。
仕事に追われる日々では滅多に見られない無防備な寝顔だった。
蓮は起こさないよう静かにベッドの傍らへ膝をつく。
眠っている蒼真はいつもの優しい笑みも、誰かを守ろうとする強さも消え、年相応の青年らしい穏やかな表情をしていた。
その寝顔を見つめているだけで胸の奥がじんわりと温かくなる。
こんな顔を見られるのは今日は自分だけなのだと思うと、不思議なほど嬉しかった。
蓮は少しだけ身を寄せ、柔らかな頬へ触れるだけの口づけを落とす。
「……行ってきます」
声にならない囁きは朝の静けさへ溶けていく。
蒼真は目を覚まさない。それでも蓮は満足そうに小さく笑った。
────誰よりも、世界中の何よりも好きだ。
蒼真を何者からも守れるくらい早く強くなりたい。
その想いだけは、新しい朝を迎えるたびに少しずつ大きくなっている。
名残惜しさを振り切るように部屋を出ると、玄関ではすでに柊が黒いトレーニングウェア姿で待っていた。
「準備はできているか」
「ああ」
短いやり取りだけで地下訓練区画へ向かう。重い防爆扉が閉まる音とともに空気が変わる。
そこは生活空間ではなく、生き残る術だけを叩き込むための場所だった。
開始の合図もないまま木刀が風を裂く。蓮は反射的に受けるが衝撃を殺しきれず数歩後退した。
「遅い」
「っ……!」
息を整える暇も与えられない。踏み込み、受け、崩され、転倒し、立ち上がる。
床へ膝をつくたび柊は容赦なく距離を詰めてくる。
「敵は待たないぞ」
「分かってる」
「理解と実行できるかどうかは別だ」
冷徹な指摘だった。しかし、その厳しさは蓮を否定するためではない。
生きて勝ち残る技術を身体へ刻み込むためのものだと、今では蓮にも分かっていた。
腕は痺れ、肩は焼けるように痛む。それでも木刀を握る指だけは決して緩めない。
蒼真を守る。その願いがある限り、倒れるわけにはいかなかった。
訓練終了をアラームが告げる頃にはシャワーで汗を流して制服に着替えるだけで筋肉が悲鳴を上げていた。
それでも学校へ向かう足取りは不思議と軽い。
教室へ入れば、きっと今日も悠馬が大きな声で「おはよう」と笑うのだろう。
その賑やかさが少しだけ楽しみになっている自分に気づき、蓮は誰にも分からないほど小さく目を細めた。
♢
昼休みを告げるチャイムが鳴ると同時に、教室は一斉に椅子を引く音で満たされた。
「蓮、今日は中庭行こうぜ」
悠馬は昨日と同じように笑い、紙パックの牛乳と購買で手に入れたパンを抱えて立ち上がる。
蓮も無言で弁当を持ち、その後ろを歩いた。
中庭に吹く風は心地よく、木漏れ日が石畳へまだら模様を描いている。
二人は鉄製のベンチへ腰を下ろした。
悠馬は焼きそばパンの袋を開けるなり幸せそうに頬張り、蓮は弁当の蓋を静かに開く。
「それ、毎日ちゃんと栄養考えられてるよな」
「そうなのか」
「絶対そう。彩りまで完璧だし」
蓮は卵焼きを口へ運びながら、小さく肩を竦めた。
「保護者兼同居人がうるさい。作ってるのは、……別の奴だけど」
「いい人なんだな」
「ああ」
迷いなく頷く。
その短い返事だけで十分だった。
悠馬は少しだけ目を細める。
「蓮ってさ、その人の話になると雰囲気変わるよな」
「そうか」
「うん。何ていうか……安心した顔になる」
蓮は否定しなかった。
否定する理由もなかった。
蒼真のことを考えるだけで胸の奥に灯る温かさは、自分でも隠せないものになっている。
悠馬はその様子を見て笑い、それ以上踏み込まないまま話題を変えた。
「そういえば昨日さ、親父からまた電話きて」
「家族か」
「叔父さんだけどな。俺、小さい頃からずっと世話になってるんだ」
パンを持つ手が少し止まる。
笑顔は変わらない。
けれど、その奥に懐かしさが滲んでいた。
「昔は身体が弱くてさ。入院ばっかりしてたんだ」
蓮は箸を止める。
「そんなに悪かったのか」
「かなり。病院の天井のほうが家の天井より見慣れてたくらい」
冗談めかして笑う。
重くならないように話していることくらい、蓮にも分かった。
「兄貴がずっと面倒見てくれてたらしいんだけど」
「……らしい?」
「俺、小さい頃のことあんまり覚えてないんだ」
生まれつき悪い心臓の手術による入院と長期治療。
幼い日々の記憶は、その苦しい過程で曖昧になっていた。
「叔父さんがよく話してくれるんだよ。兄貴、学校終わると毎日病院へ来て、本読んでくれたり飯食わせたり、一緒に寝たりしてたって」
悠馬は照れくさそうに頭を掻く。
「責任感の塊みたいな人だったらしいよ。自分のことなんか全然考えないで、俺のことばっかりだったって」
蓮は静かに耳を傾けていた。
「それで、街が大変なことになった時も……」
悠馬は空を見上げる。
雲がゆっくり流れていく。
「崩れた建物の中に俺が取り残されて、兄貴、一人で助けに入ったらしいんだ」
淡々と語られる事実。
まるで他人の昔話のようだった。
「自分も大怪我したのに、ずっと俺を探し続けたって聞いた」
蓮の胸に、微かな痛みが走る。
あの無表情な柊が、命を削るほど誰かを守ろうとした。
その姿は、今の彼からは想像もつかない。
「……兄さんのおかげで、お前は助かったのか」
「うん。でも俺の身体、もう限界だったらしくて」
悠馬は自分の胸にそっと触れる。
「今動いてる心臓も肺も、本物の俺のじゃなくて……最新の人工臓器なんだ」
悠馬はあまりにも軽く、何でもない事のようにさらりと言った。
その軽さが、苦痛を何度も受け入れて、前を見ようとしてきた人生を物語っていた。
「だから叔父さんに言われるんだよ。『お前は兄貴が命懸けで守った命なんだから、大事に生きろ』って」
照れ笑いを浮かべながら牛乳を飲む。
「………………」
蓮は何も言えなかった。
悠馬は何も知らない。
その兄が今どこで、どんな人生を歩いているのか。
自分が何気なく話し、笑い合っている相手が、その兄のすぐ傍で暮らしていることも。
胸の奥が静かに重くなる。
秘密とは、守るためにあるものなのか。
それとも、誰かを傷つけないためにあるものなのか。
答えは見つからない……。
「悪い悪い、昼飯なのに暗い話しちゃったな」
悠馬はいつもの調子へ戻るように笑った。
「食べようぜ。午後の数学、絶対眠くなるし」
「ああ」
蓮も小さく頷く。
その横顔を見ながら悠馬は不思議そうに首を傾げた。
「蓮ってさ」
「何だ」
「たまにすごく遠くを見るよな」
蓮は少しだけ目を伏せる。
「……考え事だ」
「難しいこと?」
「……そんなに簡単じゃない」
それ以上は話さなかった。
話せるはずもなかった。
昼休みの喧騒は変わらず校庭から聞こえ、笑い声が風へ溶けていく。
その穏やかな時間だけは、誰にも壊せないものだった。
モチロン蓮のお弁当を毎日作ってるのは
柊です( *´艸`)
わぁ~……マッチョメイドだぁ……('ω')




