第8話 条件
王都に、目に見える変化が現れたのは、その翌日だった。
市場の一角で、怒号が上がる。
「昨日より、また高いじゃないか!」
「仕方ないだろう。入ってこないんだ」
商人は肩をすくめ、客は苛立ちを募らせる。
値が上がったのは一品や二品ではない。穀物、塩、油――生活に欠かせないものばかりだ。
混乱は、ゆっくりと、しかし確実に広がっていった。
一方、王宮では。
「これは……予想以上だな」
王太子レオンハルトは、報告書を机に叩きつけた。
数字が示しているのは、危機そのものではない。
危機に向かう速度だった。
「軍への補給は?」
「在庫で持ちこたえていますが、次の入荷が不透明です」
「教会は?」
「寄付が減少しています。説法で抑えようとしていますが……」
抑えられていない。
それは、誰の目にも明らかだった。
「……商会は?」
その問いに、部屋の空気が一段、重くなる。
「アーベント商会をはじめ、主要商会は動いておりません」
「なぜだ」
「条件提示がないため、と……」
条件。
レオンハルトは、その言葉を噛みしめた。
王宮は命令する立場だ。
条件を出す側ではない――その意識が、判断を鈍らせる。
その頃、王都北区の高台。
アーベント商会の屋敷では、静かな会話が交わされていた。
「王宮から、三度目の要請です」
番頭がそう告げる。
「内容は?」
「“国家存続のために”と……」
セリーヌ・アーベントは、苦笑した。
「抽象的ね」
彼女は机に置かれた別の手紙へ視線を移す。
封は簡素。だが、差出人の名はない。
――それでも、誰からのものかは分かっていた。
「返事は?」
「まだです」
「ええ。急ぐ必要はないわ」
セリーヌは立ち上がり、窓辺へ歩いた。
「“助けてほしい”と言われていないもの」
それは、冷酷な判断ではない。
商人として、ごく自然な判断だ。
同じ頃、地方都市の宿。
アリシア・フォン・ヴァレンシュタインは、マティアスと向かい合っていた。
「市場に、明確な揺れが出始めました」
マティアスが淡々と報告する。
「王宮は?」
「……まだ、条件を出していません」
アリシアは、わずかに口元を緩めた。
「そう」
彼女は、テーブルの上に何もない場所を指で叩いた。
「では、こちらから出しましょう」
「……条件を?」
「ええ。ただし、直接ではない」
マティアスは、すぐに理解した。
「商会経由、ですか」
「正解」
アリシアは頷く。
「王宮は、お願いをしたくない。
商会は、責任を取りたくない。
――だから、条件は“外”から落ちる」
それは交渉ではない。
環境操作だ。
「内容は?」
「簡単よ」
アリシアは、静かに言った。
「金を出す代わりに、口を出させない」
マティアスは目を細める。
「……かなり、強気ですね」
「違うわ」
彼女は即座に否定した。
「これが、最低条件」
沈黙。
「王宮が受け入れなければ?」
「受け入れるしかない」
アリシアは紅茶に手を伸ばす。
「時間がないもの」
その言葉が、事実であることを、マティアスは理解していた。
数刻後。
アーベント商会に、一通の正式な文書が届く。
差出人は、地方の名もなき調整機関。
だが、条件は明確だった。
「……ほう」
セリーヌは文書を読み、静かに息を吐いた。
「金は出す。
ただし、王宮は口を出すな、か」
番頭が不安げに言う。
「大胆すぎませんか?」
「いいえ」
セリーヌは微笑んだ。
「これで、責任の所在がはっきりする」
彼女はペンを取る。
「受けましょう」
その決断が、王都に届くのは、翌日のことだ。
王宮にとっては、突然降ってきた“条件”。
拒否すれば、金は動かない。
受け入れれば、権威が揺らぐ。
選択肢は、二つ。
だが実際には――一つしかない。
アリシアは、窓の外の空を見上げた。
「条件を飲んだ時点で、主導権は移る」
――交渉は、すでに終わっている。
あとは、誰が最初にその紙へ署名するかだけだ。
その名前を、アリシアはもう知っていた。




