第5話 最初の歪み
王都の朝は、いつも規則正しい。
鐘が鳴り、市場が開き、役所の扉が開く。
人と金と命令が流れ出し、国という巨大な機構が、今日も問題なく動き始める――はずだった。
「……おかしい」
王宮財務局の執務室で、マティアス・クロイツは低く呟いた。
彼は机に広げられた帳簿を一冊、また一冊と確認している。
数字は合っている。計算も間違っていない。
それでも、違和感が消えなかった。
「数字が、動いていない……」
帳簿に記された金額は、どれも“正しい”。
だが、本来あるべき流動がない。
支出予定の欄が空白のまま。
入金予定の項目が、未確定として処理されている。
止まっている。
金が、流れていない。
「クロイツ殿」
部下の文官が、恐る恐る声をかけた。
「北区画の商会から、追加の確認依頼が……」
「理由は?」
「……『判断材料が不足している』とのことです」
マティアスは、ゆっくりと息を吐いた。
判断材料が不足している。
それはつまり、“決裁者がいない”という意味だ。
「決裁は、王宮が――」
言いかけて、彼は言葉を止めた。
違う。
王宮は決裁権を持っている。
だが、“調整権”は、別だ。
それを一手に担っていた人物の顔が、脳裏に浮かぶ。
――アリシア・フォン・ヴァレンシュタイン。
彼女は命令を出すことは少なかった。
代わりに、選択肢を整理し、最も「揉めない」道を示した。
商会が納得する数字。
貴族が受け入れられる体裁。
王宮が責任を負わずに済む構図。
それらを、彼女は黙って整えていた。
「……不在の影響が、早すぎる」
マティアスは立ち上がった。
「王太子殿下へ報告を」
「しかし、殿下は本日――」
「分かっている。それでもだ」
同じ頃、王都中央市場では、異変が別の形で現れていた。
「今日は、入荷が少ないな」
肉屋の主人が眉をひそめる。
「港からの便が遅れてるらしい」
「またか? 最近、多いぞ」
些細な遅延。
誰もがそう判断する。
だが、遅れたのは一つの荷だけではなかった。
穀物。
布。
塩。
どれも“必需品”であり、“代替が効かない”ものばかり。
商人たちは値を上げるか迷い、結局、様子を見ることを選ぶ。
様子を見る――それは、流通を止めるという選択だ。
一方、王宮では。
「……予算の再配分が必要だ」
王太子レオンハルトは、苛立ちを隠さずに言った。
「なぜ、こんな初歩的な部分で滞る」
財務官僚たちは視線を逸らす。
誰も、はっきりとは言えない。
“あの人がいないからです”とは。
「聖女は?」
「祈りに入られております」
「……そうか」
レオンハルトは、こめかみを押さえた。
祈りでは、金は動かない。
奇跡では、帳簿は埋まらない。
それを理解している自分に、彼は小さな苛立ちを覚えた。
――なぜ、今さら。
その頃、王都から数日離れた地方都市。
小さな宿の一室で、アリシア・フォン・ヴァレンシュタインは紅茶を淹れていた。
安物の茶葉。
香りは弱いが、嫌いではない。
机の上には、何も書かれていない紙が一枚。
そして、小さな懐中時計。
彼女は時計を見て、わずかに口元を緩めた。
「……予定通り」
誰に向けた言葉でもない。
王都で何が起きているか、彼女は知らない。
だが、起きる“順番”は知っている。
人は、異変を一つだけなら無視できる。
二つなら、偶然と片付ける。
三つ目で、ようやく不安になる。
「まだ、最初の歪み」
紅茶を一口飲み、カップを置く。
「恐怖には、少し早いわ」
彼女は窓の外を見た。
地方の空は、王都よりも広い。
追放された悪役令嬢は、何もしていない。
ただ、いなくなっただけだ。
それだけで、国は躓き始めている。
王国はまだ知らない。
これは崩壊ではない。
――警告ですらない。
ただの、
**最初の歪み**にすぎなかった。




