第4話 追放
夜明け前の王都は、まだ眠っている。
薄青い空の下、城壁の影が街路に長く伸び、露に濡れた石畳がかすかに光っていた。
人影は少ない。市場も開いておらず、聞こえるのは遠くで鳴く鳥の声と、馬の蹄が石を叩く音だけ。
アリシア・フォン・ヴァレンシュタインは、王都西門の前に立っていた。
簡素な外套。
最低限の荷。
そして、追放者を監視するためだけに配置された近衛兵が二人。
彼らの態度は丁寧だが、どこかよそよそしい。
昨日まで公爵令嬢と呼んでいた相手を、どう扱えばいいのか分からない――そんな戸惑いが滲んでいる。
「……時刻です、アリシア様」
近衛兵の一人が、申し訳なさそうに告げた。
「門をお通りください」
アリシアは頷き、一歩前へ進む。
城壁は高く、分厚い。内側と外側を分けるその構造は、この国が長い時間をかけて積み上げてきた“境界”そのものだ。
門番が合図を送り、重い扉が軋みながら開く。
その音は、処刑台の刃が落ちる音にも似ていた。
――これで終わりだ、と。
多くの者は、そう思うだろう。
だがアリシアの胸にあるのは、終焉ではない。
むしろ、確認だった。
この国は、本当に自分を切り捨てるのだ、と。
城壁の内側。
最後に見える王都の風景を、彼女は淡々と目に焼き付けた。
尖塔。
商会の屋根。
王宮の白い壁。
そこに、感傷はない。
「……?」
ふと、近衛兵の一人が眉をひそめた。
「どうした」
「いえ……」
彼は城内の方角を振り返る。
ちょうどその時、遠くで鐘の音が鳴った。
朝を告げる鐘。
いつもと変わらない、日常の始まりを知らせる音。
けれど――。
「鐘が、少し早い気がします」
近衛兵が呟いた。
アリシアは、その言葉に反応しなかった。
彼女はすでに知っている。
今日という日は、王都にとって“平常”ではない。
門をくぐった瞬間、空気が変わる。
城壁の外。
それは、王の支配が及ばない場所ではないが、少なくとも“王宮の都合”が最優先される場所ではなかった。
街道沿いには、数台の馬車が止まっている。
商人。旅人。役人。
誰もがアリシアに注目しているが、声をかける者はいない。
彼女が追放された悪役令嬢だと、すでに知っているのだ。
好奇。
警戒。
そして、わずかな期待。
――彼女が去った後、この国はどうなるのか。
その答えを、誰も知らない。
アリシアは用意された馬車へ向かう。
御者は深く頭を下げ、何も聞かずに扉を開いた。
馬車に乗り込む直前、近衛兵が小さく声をかける。
「……どうか、お元気で」
形式的な言葉だ。
けれど、そこには確かな安堵が混じっている。
厄介事が、王都の外へ出ていく。
そう思いたいのだろう。
アリシアは振り返らず、ただ一言だけ返した。
「ご忠告、感謝いたしますわ」
馬車の扉が閉まり、御者が手綱を引く。
車輪が回り、王都から距離が生まれる。
その瞬間――。
王宮の奥、財務局の一室で、最初の“異変”が起きていた。
「……これは、どういうことだ」
役人の声が震える。
机の上に広げられた帳簿。
本来なら、昨日の時点ですべて揃っているはずの書類。
だが、いくつかが存在しない。
紛失ではない。焼失でもない。
――そもそも、ここに提出された形跡がない。
「担当者は?」
「昨夜から、連絡が取れません」
「逃げたのか?」
「いえ……彼は、辞表を提出しています」
辞表。
その言葉に、部屋の空気が凍りつく。
「昨日付で……」
誰かが呟く。
「……断罪裁判の日だ」
別の役人が、無意識に唇を噛んだ。
一方、王都中央の商会区画では、朝の取引が滞り始めていた。
「本日の融資は、見送りです」
「理由は?」
「前例がありません」
それだけで、商人たちは口を閉ざす。
前例がない――それは、金を出さないという意味だ。
そしてそのすべてが、まだ“偶然”として扱われている。
馬車の中で、アリシアは静かに目を閉じていた。
揺れは一定。
外の音は遠い。
彼女の頭の中では、すでに複数の歯車が噛み合っている。
辞表を出した者。
動かなくなる金。
確認に時間がかかる帳簿。
どれも派手ではない。
だが、どれも“止まるべきではないもの”だ。
「追放とは、便利な言葉ね」
独り言のように呟く。
「責任を、全部外へ放り出せる」
王国は今、自分を切り捨てたつもりでいる。
だが実際には――。
馬車は街道を進み、王都の城壁は小さくなっていく。
アリシアは、窓の外を見ながら静かに宣言した。
「さあ。世界が、私を必要とするまで」
追放は終わった。
だがそれは、敗北ではない。
王都の門が閉じる音と同時に、
王国の均衡は、確かに崩れ始めていた。




