第3話 最後の夜
王都に残されたヴァレンシュタイン公爵家の屋敷は、異様なほど静かだった。
広大な敷地に灯る明かりは最小限。
使用人たちの足音も、囁き声も、すでに消えている。
それは偶然ではない。
アリシア・フォン・ヴァレンシュタイン自身が命じたことだった。
「今夜で、ここは“私の家”ではなくなるわ」
そう告げたとき、誰も反論しなかった。
使用人たちは皆、彼女が命じる前から理解していたのだ。この屋敷が、主を失うのだということを。
書斎の扉が静かに閉まる。
アリシアは一人、長い机の前に立っていた。
壁一面の書棚には、分厚い帳簿や契約書、王宮との往復書簡が並んでいる。
――正確には、並んで「いた」。
今、棚の多くは空だ。
重要な書類はすでにここにはない。
火の入っていない暖炉。
机の上には、封を切られていないままの推薦状や、謝罪文、そして脅迫めいた書状が積まれている。
どれも、もう意味を持たない。
「……人は、終わると分かった瞬間に本音を出すものね」
アリシアは一通の手紙を手に取り、軽く目を通した。
昨日まで彼女を恐れていた貴族が、突然“理解者”を名乗っている。
唇に、薄い笑みが浮かぶ。
理解など、いらない。
必要なのは、配置だけだ。
控えめなノックが響いた。
「どうぞ」
扉を開けて入ってきたのは、年配の執事だった。
ヴァレンシュタイン家に三十年以上仕えてきた男。
「お嬢様……いえ、アリシア様」
言い直す必要はないのに、彼はそうした。
立場が変わったことを、彼なりに示したかったのだろう。
「皆、屋敷を離れました。必要な者には、次の勤め先も手配しております」
「ありがとう」
アリシアはそれ以上、何も言わなかった。
感謝を言葉にしすぎるのは、別れを重くする。
執事は少しだけ躊躇い、それから問いかけた。
「……後悔は、ございませんか」
アリシアは、窓の外を見た。
夜の王都。無数の灯りが、まるで何事もなかったかのように瞬いている。
「後悔は、選択を誤った者がするものよ」
静かな声だった。
「私は、最適な手を打っただけ」
執事は何も言えなくなり、深く一礼した。
「では……これで」
扉が閉まる。
完全な孤独。
アリシアはゆっくりと椅子に腰掛け、最後の帳簿を開いた。
そこには金額ではなく、名前と役割だけが記されている。
――誰が、どこで、何を“止める”か。
すでに、すべては動き出していた。
彼女は羽根ペンを置き、帳簿を閉じる。
「王都は、三週間もたない」
その予測に、感情は伴わない。
崩れるものが崩れるだけだ。
深夜。
屋敷の裏門に、簡素な馬車が用意された。
荷物は少ない。
衣服が数着と、装身具がいくつか。
――そして、誰にも見せなかった小さな箱。
馬車に乗り込む直前、アリシアは屋敷を振り返った。
生まれ育った場所。
権力と信用と、無数の敵意が詰まった箱庭。
名残はない。
「ここは、役目を終えたわ」
御者が手綱を引き、馬車が動き出す。
夜の街道を進みながら、アリシアは目を閉じた。
思い浮かぶのは、王宮の広間で見た人々の顔。
勝ったつもりの王太子。
安堵する貴族たち。
自分の善意を疑わない聖女。
――彼らはまだ、始まりの合図を聞いていない。
馬車が城壁を抜ける。
王都の外。
その瞬間、アリシアは静かに呟いた。
「明日からは、自由よ」
それは解放の言葉ではない。
責任から解き放たれた者の、冷たい宣言だった。
王国は今、彼女を失ったことに気づいていない。
気づく頃には、取り戻す手段も失っている。
最後の夜は、こうして終わった。
――音もなく、確実に。
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