第2話 沈黙する悪役令嬢
断罪裁判の翌朝、王都は奇妙な静けさに包まれていた。
騒ぎが収束したわけではない。むしろ逆だ。
人々は興奮し、酒場では昨夜の裁判の話題で持ちきりだろう。それなのに、王宮の空気だけが、ひどく重い。
理由は単純だった。
誰もが期待していた“余韻”が、どこにもなかったからだ。
悪役令嬢は泣かなかった。
叫ばなかった。
呪いの言葉ひとつ残さず、ただ静かに去った。
その事実が、王宮の人間たちの神経を逆撫でしていた。
「……あの女、本当に何も言わなかったのか?」
王太子レオンハルト・アルヴェインは、自室で苛立ちを隠そうともせずに問い返した。
応対しているのは、側近の若い文官だ。彼は背筋を正したまま、慎重に言葉を選ぶ。
「はい。取り乱す様子もなく、財産の確認も要求せず……今朝、指定された門から王都を出たと報告が」
「……そうか」
レオンハルトは窓の外へ視線を投げた。
晴れている。雲ひとつない空だ。あまりにも、何事もなかったかのように。
本来なら、胸が軽くなるはずだった。
長年の婚約者であり、政治的にも厄介な存在だった女を、ようやく切り離したのだから。
それなのに――胸の奥に、小さな棘が刺さったまま抜けない。
「彼女は……」
言いかけて、言葉を切る。
何を聞きたいのか、自分でも分からなかった。
その時、扉がノックされた。
「失礼いたします、殿下」
入ってきたのは財務局の役人だった。
年配で、几帳面そうな男。彼の顔色が、いつもより悪い。
「どうした」
「……国庫の月次報告について、ご報告が」
役人は書類を差し出した。
レオンハルトは受け取り、ざっと目を通す。
眉が、わずかに動いた。
「……空白が多いな」
「はい。いくつかの帳簿が、まだ提出されておりません」
「まだ? 期限は昨日だったはずだろう」
「それが……担当者が、確認に時間がかかると」
言葉を濁す役人に、レオンハルトは苛立ちを覚えた。
「確認とは何だ。帳簿は帳簿だろう」
「……前任者が管理していた帳簿でして」
前任者。
その単語に、レオンハルトの手が止まる。
「前任者、とは?」
役人は一瞬、躊躇った。
「……ヴァレンシュタイン公爵令嬢です」
空気が、ぴんと張り詰めた。
アリシア・フォン・ヴァレンシュタイン。
つい昨日まで、この国の財政と商会の調整役を担っていた女。
彼女は“口出しが多い”“越権行為をする”と不評だったが、その実務能力を正面から否定した者は、ほとんどいなかった。
「……引き継ぎは?」
「正式なものは、ございません」
「なぜだ」
「国外追放の判決が急でしたので……」
急だった、という言葉が胸に引っかかる。
確かに、早かった。あまりにも。
「……分かった。下がれ」
役人が退出すると、レオンハルトは椅子に深く腰掛けた。
胸の棘が、少しだけ深く刺さった気がした。
――だが、問題はそれだけではない。
その頃、王都の中央通りに面した大商会アーベント家の応接室でも、同じ名前が話題に上っていた。
「融資の件ですが」
若い番頭が切り出す。
「王宮からの要請、どうなさいますか?」
大きな窓際に立つ女――セリーヌ・アーベントは、外を眺めたまま答えなかった。
王都の人の流れ。商人、貴族、平民。金の匂いが交錯する場所。
「……返事は?」
「まだ出しておりません」
「ええ、いいわ」
セリーヌは微笑んだ。
それは商人としての笑みではなく、もっと別のものだった。
「前例がない、とだけ伝えて」
「前例、ですか?」
「ええ。昨日まで、この国の信用を“調整”していた人間が、突然いなくなったのよ」
番頭は言葉に詰まる。
「それで、すぐに金を出すなんて……無責任でしょう?」
責任。
その言葉を、セリーヌはゆっくりと転がす。
「様子を見ましょう。市場は正直だもの」
同じ頃、王宮の礼拝堂では、聖女エリス・ルミナリアが祈りを捧げていた。
「……どうして、あんな顔をしていたのかしら」
誰に向けたわけでもない呟き。
裁判の最中、アリシアは怒らなかった。
それどころか、どこか安堵しているようにも見えた。
――私の気のせい?
エリスは首を振り、祈りを続ける。
正義は果たされた。
悪は裁かれた。
そうでなければ、困るのだ。
一方、王都の外れ――。
馬車が静かに街道を進んでいた。
揺れは最小限に抑えられ、御者は無駄口を叩かない。
車内で、アリシア・フォン・ヴァレンシュタインは、膝の上に置いた小さな帳面を閉じた。
そこには、金額も名前も書かれていない。
記されているのは、日付と、短い記号だけ。
――十分。
彼女は窓の外へ視線を向けた。
王都の城壁が、ゆっくりと遠ざかっていく。
誰も追ってこない。
誰も呼び止めない。
それでいい。
「沈黙は、最も誤解されやすい選択肢よ」
独り言のように呟き、アリシアは目を閉じた。
彼らはまだ気づいていない。
自分たちが裁いたのは“悪”ではなく――“調整役”だったということに。
王国は今、音もなく均衡を失い始めている。
そして沈黙の中でこそ、
本当の交渉は始まるのだ。




