第17話 王太子の焦り
大祈祷が始まって、三日目。
王都の街路には聖歌が満ち、白い布が風にはためいている。
人々は祈り、頭を垂れ、声を揃えて神の名を唱えていた。
――表面だけを見れば、王都は落ち着きを取り戻したかのように見える。
だが、王宮の奥では、別の空気が渦巻いていた。
「……数字が合わない」
王太子レオンハルト・アルヴェインは、机に広げられた報告書を睨みつけていた。
教会の支出。
市場の取引量。
軍需在庫。
どれもが、同じ方向を示している。
――減少。
「大祈祷の影響は?」
「想定以上です」
補佐官の声は低い。
「人手が教会に取られ、港と倉庫の作業が遅れています。
教会の蓄えも……長くは持ちません」
レオンハルトは、拳を握りしめた。
「聖女は……」
「信じています。
祈りが終われば、民心は安定すると」
それを責めることはできない。
彼女は、自分の役割を果たしている。
――問題は、他だ。
「調整官は?」
「エドガー卿は……判断を求めています」
その言葉に、レオンハルトは思わず立ち上がった。
「判断を、だと?」
怒鳴るつもりはなかった。
だが、声に苛立ちが滲む。
「彼は、何のために任命した」
補佐官は答えない。
答えがないからだ。
レオンハルトは、部屋を歩き回る。
断罪裁判の日。
あの場で、自分は“正しい判断をした”はずだった。
――有害な存在を、排除した。
なのに、なぜ今、自分が追い詰められている。
「……違う」
彼は、呟く。
「これは、想定外だ」
だが、想定外が積み重なった結果が、今だ。
レオンハルトは、エドガーを呼び出した。
しばらくして、臨時調整官が現れる。
顔色は悪く、目の下には隈ができている。
「……殿下」
「どういうつもりだ」
レオンハルトは、単刀直入に切り出した。
「なぜ、ここまで来て、決断しない」
エドガーは、言葉を探す。
「私は……」
「任命したのは、代替のためだ。
前任者のように、すべてを背負えとは言わない」
レオンハルトは、一瞬だけ言葉を切り、続ける。
「だが、何も選ばないのは違う」
エドガーは、俯いた。
「……選べません」
その声は、かすれていた。
「どれを選んでも、王国に傷が残ります」
「政治とは、そういうものだ!」
レオンハルトの声が、会議室に響く。
沈黙。
エドガーは、ゆっくりと顔を上げた。
「……それを、あなたは本当に受け入れる覚悟がありますか」
その問いは、鋭かった。
レオンハルトは、言葉を失う。
自分は、誰かを切り捨てられるのか。
その責任を、背負えるのか。
答えは、出ない。
「……下がれ」
短く告げる。
エドガーは一礼し、部屋を出た。
一人残されたレオンハルトは、椅子に崩れ落ちた。
「……なぜだ」
自分は王太子だ。
決断する立場のはずだ。
それなのに、決断するたびに、何かを失う。
その時、ふと脳裏をよぎった。
沈黙する女。
責められ、断罪され、それでも揺らがなかった背中。
――あれほどの覚悟を、持てる者がいるのか。
「……」
レオンハルトは、額を押さえた。
王都の鐘が鳴る。
祈祷の終わりを告げる音。
だが、それは救済の合図ではない。
――猶予の終わりだ。
一方、地方都市の宿。
アリシア・フォン・ヴァレンシュタインは、マティアスからの報告を受け、静かに頷いた。
「王太子が、焦り始めたのね」
「はい。調整官を叱責したようです」
「遅いわ」
彼女は、淡々と言う。
「焦りは、正しい判断を遅らせる」
マティアスは、慎重に問う。
「……次は、何が起きますか」
アリシアは、少しだけ考え、それから答えた。
「逃げ道を探す」
王太子は、もう理解している。
自分では、背負いきれないと。
「だから、誰かに預けようとする」
それが、王宮にとっての最後の“正常な反応”だった。
「次は、非公式接触ね」
アリシアは、静かに予告する。
王都は今、
決断できない王太子と、決断できない調整官に挟まれ、
完全に立ち往生していた。
そして、その均衡は――
**もう一度、悪役令嬢の名を呼ぶことでしか崩れない**。
その事実に、
王国は、まだ気づいていなかった。




